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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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まぼろしのシューター 前編総集編5

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檜舞台MSG

1932年の夏、ニューヨーク・アスレチック・コミッションは、それまで世界王者(NYC)として認定していた“黄金のギリシャ人”ジム・ロンドスの王座剥奪を発表しました。

その理由は、同年6月に「世界王座挑戦者決定戦」として行われたエド・ストラングラー・ルイスとディック・シカットの一戦における勝者であるルイスの挑戦をロンドスが拒否した、というものでした。

これは一説に、ニューヨークの大プロモーターであるジャック・カーリーと、彼と確執のあったルイスとの間で和解が成立し、絶大な人気を誇ったロンドスの傍若無人な態度に業を煮やしていたカーリーが、ルイスを使ってロンドスの世界王座の追い落としを謀っていたのを察知して、ロンドスが王座を放棄してニューヨークを離れたものだと言われております。

ルイスの「ロンドス嫌い」は関係者の間ではつとに有名であり、また当時のルイスには実力でロンドスを王座から陥落させることが、まだ年齢的にも可能だったのでしょう。

さて、空位になった世界王座の行方についても、この時に併せて発表になりました。

それはまず同年1010日にレイ・スチールとジャック・シェリーが対戦し、その勝者とルイスが1031日に「世界王座決定戦」を行う、というものでした。

このスケジュールは、スチールが直前に試合をキャンセルしたことで変更となり、最終的には1010日のマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)において、ルイスとシェリーの間で王座決定戦が行われることに決まりました。

ここに、私はひとつの疑問を感じます。

それは、ルイスとの王座決定戦に何故シェリーが抜擢されたか、ということです。

私の調査が正しければ、1920年代をトラスト・バスターとして過ごしてきたシェリーに、これまで世界王座に挑戦するチャンスは皆無でした。

そして、1930年代の約2年間はニューヨーク周辺エリアの会場で試合をしていたシェリーでしたが、この地区の総本山とも言えるMSGでの試合に出場することは、それまで一度としてありませんでした。

当時から変わらないプロレス界の通例として、こういった大舞台でのメイン・カードに出場する新顔のレスラーは、他のエリアでのトップであれ、ある程度の段階を踏むものです。

まずはセミ・ファイナルあたりで中堅クラスのレスラーを破って実績を作り、プロモーターはそのレスラーの宣伝に努めます。

それがMSG初登場で、いきなりルイスとの世界戦とは、まず考えられないことです。

例えその試合の勝者がルイスだと、事前に決まっていたとしても、です。

私は次のように考えます。

トラスト・バスターとしてのシェリーの認知度は、1920年代を知るファンの間ではかなり高いものだった。

1930年代に入ってシェリーがニューヨーク周辺の会場に出場していることも、当然地元のファンは周知だった。

そして関係者の間で“無冠の帝王”の異名を持っているシェリーを破ることは、ロンドスを追い落とし世界王座に返り咲くルイスにとって、まだロンドスに取って代わるだけの実力者であることを証明するため、またトラスト・バスターとかつて呼ばれたレスラーの実力が、実は大したものではないことを知らしめるためにも必要なことだった――。

いかがでしょうか。

私にはこの「シェリー大抜擢」の理由が、他に探し出せないのです。

シェリーとルイスは、この時よりちょうど2年半前の193043日に、ボストンで一度だけ対戦した記録が残っております。

このときはシェリーが1本目を先取したものの、2本目、3本目を連取され、ルイスに破れています。

シェリーのアメリカ時代で唯一とも言える“檜舞台”での闘いが、いよいよ始まりました。


ルイスの告白

ジャック・シェリーとエド・ストラングラー・ルイスによる「世界王座決定戦」は、19321010日にマジソン・スクェア・ガーデン(MSG)において行われました。

この日の会場に集まった観衆の数は、およそ5,000人でした。
同年初頭までのジム・ロンドスの王者時代には、多い時で2万人、少ない時でも1万人以上の観客を収容していたわけですから、わずか半年あまりで隔世の感があります。
もはやルイスが持っていたカリスマ性は、なきに等しいものとなっていたのです。

両者の一戦は、俗に「オールド・スタイル」と呼ばれる、当時すでに主流であったフライング・メイヤーやフライング・タックルなどの派手なパフォーマンスが一切ないクラシカルで地味な試合展開となり、それまでロンドスのダイナミックな試合を見慣れた多くの観客からは、ヤジが飛び嘲笑が漏れていた、と翌日の新聞は伝えております。

“現代プロレス中興の祖”ともいうべきルイスのことですので、観客に阿った試合を見せることも可能だったはずです。

ところが彼はシェリーに合わせるかのように、オールド・スタイルのレスリングを行いました。

私はこの試合が、ある時点まで「コンテスト・マッチ」として行われていたような気が致します。

ずっと後年の1971年にイギリスで出版された『BLUE BLOOD ON THE MAT』というタイトルの書は、初代「大英帝国ヘビー級王者」であったアソール・オークリー(Atholl Oakeley)の自伝ですが、その記述の中には、渡英したルイスがオークリーにこの一戦の顛末を語る場面があります。

その部分を抜粋して訳してみます。

「俺は奴(シェリー)に何もできなかった。1時間経っても決着がつかねえ。奴は強すぎたんだ。客はずっと俺たちに注目してやがる。俺は、奴にこうささやいた。“おいジャック、どっちかが降りねえとレスリングじゃなくなるぞ”ってな。“あんたがリマッチのトレーニングに半年くれるんなら、俺は降りてもいいぜ”って奴は言ったよ。 俺がOKすると、奴は(この一戦の勝ちを譲り)リングを下りていったんだ」

試合は1時間13分にも及ぶ激闘の末、ルイスがこの試合4度目のヘッド・ロックを敢行しシェリーに辛勝、ニューヨーク版世界王座に就きました。

上記したルイス述懐の真偽の程は量りかねますが、試合中にルイスがシェリーと約したという両者の「リターン・マッチ」は後日、実際に行われようとしておりました。
ルイスが世界王座をジム・ブロウニンに明け渡すこととなるMSGでの一戦(1933220日)の直前である215日、場所はフィラデルフィアのコンベンション・ホールと決定し、チケットも売られておりました。

ところが試合の直前になり、このリターン・マッチは突然キャンセルとなりました。

この興行を取り仕切るプロモーターのフィル・グラスマンは、

「ニューヨークのシェリーから電話があり、トレーニング中の負傷により試合をキャンセルしたい旨の申し出があった」

と、その理由を説明しました。

果たして本当にそうでしょうか。


幻のフィラデルフィア決戦

ジャック・シェリーの「ルイス戦欠場の謎」については、当時の雑誌『Boxing & Wrestiing News』誌が2回に渡って特集記事を掲載しております。

そこからこの「事件」の顛末を、以下に要約してみます。

フィラデルフィアのプロモーターであるフィル・グラスマンは、「トレーニング中に負傷した」シェリーに代わって、来たる215日のエド・ストラングラー・ルイスの世界王座への挑戦者は、自分の子飼いであるスタンレー・ピントが務める、と報道陣に発表しました。

この新聞記事を、シェリーはニューヨークで目にしました。

彼はすぐにグラスマンに電話を入れ、自分が負傷も、ましてや欠場の連絡などしておらず、それがルイス・サイドのくわだてた陰謀である、と訴えました。

そしてグラスマン相手ではラチがあかないと知るや、シェリーはフィラデルフィアのアスレチック・コミッショナー宛に、同様の趣旨をしたためた速達を出しました。

シェリーの訴えを重く受け止めたコミッショナーのロバート・ネルソンは、試合当日である15日の午前中に、フィラデルフィアで関係者を集めて公聴会を開きました。

シェリーがその席で意見を述べたあと、グラスマンの側近であるナット・フランクなる人物が、自分が受けた電話の声は確かにシェリーのものであった、と証言し、グラスマンは、その報告を聞いてシェリーの代わりにはピントが適任者だと考えた、と述べました。

その日の公聴会は、それぞれが自分の主張を述べるだけで結論は出ませんでしたが、ネルソンは、ひとまずその日の夜に予定されている興行の中止を、グラスマンに命じました。

次の公聴会は、ルイスがMSGでジム・ブロウニンに破れ、世界タイトルを失った翌日の221日に、再びフィラデルフィアで開かれました。

その席上でシェリーは、この「事件」の顛末は、ブロウニンにタイトルを「明け渡す」前に、シェリーにベルトを奪われることを恐れたルイスの関係者が、プロモーターのグラスマンと諮って自分にタイトル奪取の機会を与えぬよう計画されたもので、この試合が実現していれば、自分は必ずルイスに勝つ自信があった、という趣旨の意見陳述を行いました。

シェリーの発言は、この会の議長であるネルソンを十分納得させるに足るもので、彼は、この件の真相が解明されるまでの間、一切のプロレス興行を行ってはならない、とグラスマンに改めて命じました。

後日、シェリーは新聞記者のインタビューに応じて、ブロンニンの世界王座は無効であり、自分こそが世界王者である、と主張しています。

ルイスは前回のMSGにおけるシェリーとの対戦を通じて、彼を「信用ならざる人物」と考え、今回の計画をくわだてたようですが、彼の懸念は実際に的中しておりました。

シェリーは「本気」で、ルイスの世界王座を奪うつもりだったのです。

そしてシェリーとの「シュート・マッチ」で彼に勝利する自信など、すでに43歳になろうとしていたルイスには持てなかったようです。

前回も紹介した『BLUE BLOOD ON THE MAT』には、この「幻のフィラデルフィア決戦」をルイスが述懐する場面もあります。

「半年前の奴(シェリー)は俺を嘗めていやがって、ろくすっぽトレーニングもしてなかった。そこら辺の奴らと俺を、おんなじように考えていたんだろうよ。だが今回は違った。この再戦に向けてトレーニングしてきた奴は、前とは全く別人だった。それに奴のそばにゃ、もうひとりの野郎がいた。2人がかりでやられちゃ、俺も勝てねえよ。誰かって?“時の流れ”だよ。誰も敵わねえ野郎さ」

さて、シェリーとルイスの因縁は、ずっと後に再燃することになりますが、それはまた後日記すことに致します。


ズビスコの手記

前回お話しした「事件」の後も、ジャック・シェリーはニューヨーク周辺での試合を続けておりました。

MSGには、その「事件」の直前である1933123日に再び出場しておりますが、シェリーの試合は前回と打って変わり、何と「前座第1試合」という扱いです。

そして、その後シェリーが“檜舞台”MSGのリングに再び上がる機会は、二度とありませんでした。

同年321日付の新聞は、エド・ストラングラー・ルイスのかつてのライバルであり、“大黒柱”と呼ばれたポーランドのスタニスラウス・ズビスコ(Stanislaus Zbyszko)が、シェリーのマネージャーに就任したことを、自分はシェリーが必ず世界王者になると信じている、という彼のコメントとともに伝えております。

しかし、シェリーとズビスコの蜜月の期間は、それほど長いものではなかったようです。

その理由をズビスコは、ずっと後年の1953年に『TRUE 』なるゴシップ誌に発表した手記で、次のように述べています。

(1930年代の)アメリカ・マット界は、金儲け主義のプロモーターたちに牛耳られており、人気ばかりで実力の伴わないレスラーたちが世界王者の座に居座っていた。私は連中にひと泡吹かせてやろうと、実力のあるジャック・シェリーのマネージャーに就任した。当時シェリーは、(プロモーターのポール)ボウザー子飼いのチーズ・チャンピオンであるダノ・オマホニーに勝ちを譲らねばならぬのを忘れ、うっかりと勝ってしまい、プロモーターたちのブラックリストに載り不遇な日々を送っていた。まずはシェリーをフィラデルフィアでルイスと対戦させようとしたが、直前になってルイスが試合を拒否してきた。それならばとニューヨークでドイツ人のタフガイ、ディック・シカットとの試合を組もうとしたが、何と今度はシェリー自身が試合をキャンセルして、シンジケートの元に走り去り、パフォーマーに成り下がってしまった」

幻と消えたルイスとの一戦は、ズビスコがマネージャーに就任する以前の出来事のようですので、上記文中のルイス云々の部分は、ズビスコの記憶違いか、いわゆる「手柄話」の一種と考えてよさそうです。 

マスコミを賑わせた「幻のルイス戦」を新聞で知ったズビスコが、自らシェリーのマネージャーを買って出た、というのが真相ではないでしょうか。

ですが、もしもズビスコのマネージャー就任が、新聞報道よりもかなり以前の出来事で、手記の内容が事実だとすれば、それこそルイスが態度を硬化させ、シェリーとの対戦を何としても避けようとした最大の理由であることは、間違いないでしょう。

ジム・ロンドス同様、ズビスコもルイスとは「犬猿の仲」でしたから、彼がマネージャーに就任した以上、シェリーとの対戦をルイスが承諾するはずがありません。

硬骨漢で知られるズビスコがシェリーの側に立った時点で、フィラデルフィアのリングで行われるのは、「シュート・マッチ」以外にないのです。

もうひとつ上記の文中で重要なのは、シェリーが再び「シンジケートの元に走り去」った、という部分です。

ルイスとのフィラデルフィア決戦前後のシェリーは、まるでかつてのトラストバスターとして過ごした時代を思い出したかのように、活き活きと彼の本領を遺憾なく発揮しているように見えます。

しかし夢破れ意気消沈したシェリーには、再びトラスト傘下の中堅レスラーとして従来のように試合をこなしていくより他に、アメリカのプロレス界で生きていく術はなかったのです。

さて、シェリーの試合記録は1934年初頭まで全米各地の新聞で散見されますが、彼は同年2月を最後に、忽然とアメリカ・マットから姿を消します。

果たして、彼はどこに消えてしまったのでしょうか。


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