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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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まぼろしのシューター 前編総集編6

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一通の電報

1935年も終わろうとしていたある日のことでした。

大英帝国初代ヘビー級王者であり、当時はプロモーターも兼任していたイギリスのアソール・オークリーは、南アフリカから1通の電報を受け取りました。

差出人は、ヘンリー・アースリンガー(Henry Irslinger)という現地のプロモーターでした。

アースリンガーは、元々第一次大戦前のイギリスや、アメリカで活躍したミドル級のレスラーで、1908年にはロンドンのアルハンブラ劇場におけるキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのオープン・トーナメントで、のちに「グレイシー柔術の祖」として知られるコンデ・コマこと前田光世を破ったこともありました。

アースリンガーはその後、レスラーのかたわらでカナダを中心にプロモーターとして興行を続けておりましたが、1920年代後半には南アフリカにも進出してプロレス興行を行い、成功を収めておりました。

そしてアースリンガーは、1930年にレスラーであるベン・シャーマン(Ben Sherman)を伴い再渡英し、当時アメリカで人気を博していた、ダイナミックかつスピーディな最新スタイルのプロレス興行をイギリスで行いました。

ちなみにシャーマンは、“求道者”カール・ゴッチが「自分の人生で出会った最強レスラーのひとり」として尊敬していたレスラーで、後年プロ柔道からハワイでプロレスラーに転向した“柔道の鬼”木村政彦に、プロレス技術を指導したとも伝えられる「伝説のシューター」です。

『オールイン』(all-in)と名づけられたその興行の開催にあたり、アースリンガーはイギリスのアマチュアレスラーを何人かスカウトしましたが、そのうちのひとりがオークリーでした。

イギリス初の本格的なアメリカン・スタイルのプロレス興行は大成功のうちに終わり、その後もイギリス全土で大好評を博しました。

ースリンガーは、オークリーをアメリカに遠征させるなど「英才教育」を施したのち、彼にオールイン興行の一切を任せ、南アフリカへと戻っていきました。

オークリーは、1934年頃までレスラーを兼任しておりましたが、アースリンガーからの電報を受け取った時には、すでにプロモーター業に専念しておりました。

彼からの電報は、以下のような内容でした。

「これまで見たこともない凄いレスラーを発掘した・彼は私の興行を潰してしまう・彼の名はジャック・シェリー・世界王座を持っている・彼が私のビジネスを潰してしまう前に君の元へ送る・ヘンリー」

そう、アメリカを離れたジャック・シェリーは、南アフリカにいたのです。


シェリー離米の謎

1934年初頭にアメリカを離れたジャック・シェリーは、1935年時点で南アフリカのプロレスの興行に出場しておりました。

一説には、オーストラリア経由で現地に入ったとも言われております。

ェリーは何故アメリカを離れ、地の果てともいえる南アフリカにいたのでしょうか。

もちろん、その理由についてきちんと書かれたものは存在しません。

そこで、私の考えつくままにいくつか列記してみます。

もはやアメリカ国内にシェリーのポジションはなかった。

幻と消えたフィラデルフィアでのエド・ストラングラー・ルイス戦における一連のやり取りは、同地のコミッショナーまで巻き込んだ大事件へと発展し、その際のシェリーの言動は、全米中のプロモーターたちの知るところとなりました。

元々1920年代には、「トラストバスター」として知られていたシェリーです。

「やはりシェリーは信用のおけない、危険なレスラー」

と彼らが考えたことは、想像に難くありません。

自分の子飼いのトップ・レスラーを危険分子のシェリーと対戦させようとするアメリカ国内のプロモ-ターは、ごく僅かだったと思われます。

アメリカン・プロレスのグローバル化

1920年代から30年代にかけて、アメリカ・マットを離れ海外に進出するレスラーが多数存在しました。

具体的には、1920年代前半にオーストラリアに遠征した、ジョン・ペセック、クラレンス・イークランド(同地でアド・サンテルを破り世界ライトヘビー級王座獲得)やウォルター・ミラー、アル・カラシック(のちのハワイのプロモーター)、テッド・ザイ、シェリーより以前の1930年代初頭に南アフリカを訪れたベン・シャーマンやボブ・マイヤース(ウィガンのビリー・ライレーに勝利し世界ミドル級王座を獲得)などの名前が挙げられます。

また1921年の大正期に来日し、日本柔道界に挑戦状を叩きつけたアド・サンテルや、1928年にインドを訪れグレート・ガマと対戦したスタニスラウス・ズビスコも、これに該当するでしょう。

また多くの軽量級レスラーがメキシコを始めとする中南米を訪れ、始まったばかりのルチャ・リブレの発展に大きく貢献しています。
イギリスのプロレス史家であるチャールズ・マスカルは、後年彼らを「グローブ・トロッター」(globe-trotter、「世界を闊歩する人」の意)と呼んでおりますが、ある意味では欧米や中南米など文字通り世界を渡り歩いたコンデ・コマこと前田光世などは、グローブ・トロッターの典型と言えるかも知れません。

彼らは決して当時のアメリカ・マット界のトップという存在ではなく、その多くはレスリングの高度な技術を持ちながら、それに見合うポジションを与えられていなかったレスラーたちです。

彼らは、自分の実力に見合った活躍が出来る場を海外に見出しました。

そして彼らの意思に関わらず、彼らが訪れた多くの地では、アメリカン・スタイルのプロレスが根付いていきました。

アメリカ・マットで与えられたポジションに決して満足していなかったシェリーが、彼ら先達に倣い海外に飛び出したのは、むしろ必然と言えるかも知れません。

南アフリカという環境

1920年代の後半、ヘンリー・アースリンガーが現地でプロモートを開始した話は前回書きましたが、彼のプロレス興行はかなり活況だったようです。

その要因のひとつには、同地が金やダイヤモンドの世界有数の原産地であり、欧米からも多くの白人が「第二のアラスカ」を夢見て集まっていたことにあります。

“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン最後の伝承者”と言われるビル・ロビンソンに話を伺ったことがありますが、1930年代初頭に南アフリカに遠征した彼の師であるビリー・ライレーは、アメリカのベン・シャーマンやボブ・マイヤースと組んで金の採掘地を廻って小さな興行を行い、かなり大もうけをしたとロビンソンによく話して聞かせたようです。

シェリーが南アフリカより先にオーストラリアに渡っていれば、恐らく現地で知り合ったレスラーに南アフリカのマーケットについて話を聞いたのでしょうが、元々アラスカでプロレスラーとなったシェリーですから、「ゴールドラッシュ」による活況がどのようなものであるかは、身を持って知っていたのでしょう。

私の考えるシェリーの南アフリカ遠征の理由は以上のようなものですが、いかがなものでしょうか。

さて、アースリンガーの電報によれば、シェリーは現地で「世界王者」を名乗っていたようですが、それはいつ、どこで、誰から獲得したものなのでしょうか。


世界王者シェリー

ジャック・シェリーは、1935年に南アフリカからイギリスにやってきました。

かつては前田光世と2度に渡る死闘を展開し、ベン・シャーマンやボブ・マイヤースといった名だたるシューターたちと親交のあったヘンリー・アースリンガーでさえ、シェリーの妥協なきファイトぶりには手を焼いてしまい、イギリスの兄弟分であるアソール・オークリーに負い被せる形でイギリスに送り込んだのです。

そしてイギリスに到着したシェリーは、「世界王者」としてリングに上がることになりました。

当時のイギリスにおけるシェリーのプロフィールでは、この世界王座について次のように告知されたようです。

「この世界王座は、1934年にペンシルバニア州フィラデルフィアにおいてエド・ストラングラー・ルイスを破り獲得したものである」

年の違いこそあれ、これが先に述べたルイスとの「幻の一戦」を指すことは言を俟ちません。

シェリーにとってこの「戦いなき世界王座」は、ルイス・サイドの陰謀によってフィラデルフィアの一戦が中止にさえならなければ、必ずやルイスからタイトルを奪うことが出来た、という自信の表れとも言えるでしょう。

そして、もし仮にアメリカのルイスがこの世界王座にクレームをつけてくれば、イギリスのマットでルイスを返り討ちにし、今度こそ正々堂々と「アンディスピューテッド・ワールド・チャンピオン」(真の世界王者)を名乗ることが出来るのです。

一方、世界王者シェリーを迎え入れたオークリーには、一抹の不安がありました。

シェリーの何をアースリンガーが恐れたのか、ということです。

それを知るために、オークリーはある試みを思いつきました。


ジム・マッチ

ジャック・シェリーが渡英した当時、アソール・オークリーのオールイン・スタイルの団体は『トウェンティ・センチュリー・キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング・アソシエーション』という名称で、その興行は欧州中で活況を極めておりました。

ですから、オークリーにはイギリス国内はもとより、欧州各国からレスラーを結集させられる力がありました。

オークリーは、彼らの中から選りすぐりのレスラーをジムにおいてシェリーとスパーリングさせてみることで、彼の実力を確かめることにしたのです。

通常「ジム・マッチ」と呼ばれるこの観客不在の闘いは、「プライベート・マッチ」(例えば先に述べたルイスとプレスチナのスパーリング)とは若干意味合いが異なり、レスラー同士の強弱を測定するものではなく、プロモーターの意志で一方のレスラーの実力や特徴を確認し、どのようなポジションで、どのようなプロモーションを行うかを決定するような場合に用いられます。

これは後年のアメリカはもとより、日本のプロレス界においても実力未知数のレスラーが来日した場合などに、何度も行われたと聞き及びます。

オークリーはまず、フランスのアマレスの王者だったガストン・ゲバルトというレスラーをシェリーにあてました。

1ラウンド:シェリーはゲバルトに向かって歩を進め、まるで5歳児でも扱うようにゲバートを抱え上げ、その肩をマットに押し付けました。この間10秒。

2ラウンド:再び歩を進めたシェリーは、ゲバルトをダブルリストロックに極め、ゆっくりと23秒でフォールしました。

3ラウンド:ゲバルトの足を取りレッグロックで勝利しました。これもわずか10秒です。

オークリーは、王者とはいえ所詮アマチュアであるゲバルトに代わり、今度はカール・ポジェロ(Karl Pojello)をシェリーとスパーリングさせてみることにしました。

ご記憶のある方もいらっしゃるでしょうが、ポジェロはシェリーと同様に1920年代のアメリカで「トラスト・バスター」として名を馳せたレスラーで、彼もやはりアメリカを離れ、当時はオークリーの興行に出場しており、その実力は折り紙つきでした。

彼は同時に、オークリーの片腕とも言うべき、よき相談相手でもありました。

余談ですが、ベルギーのアントワープで少年時代を送ったカール・ゴッチの通うジムに、同地に遠征中のポジェロが仲間のレスラーと連れ立って練習に訪れたことがあり、彼らのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの練習を見たゴッチが「世の中にはこういうスタイルのレスリングもあるのか」と驚愕したというエピソードが残っております。

言わば、彼こそゴッチがその後のレスリング人生を送るきっかけを作ったレスラーなのです。

シェリーとポジェロは試合こそしていないようですが、アメリカでは同じ興行に出場していたこともあり、旧知の間柄でした。

ですからお互いの実力の程はある程度理解していたと思いますが、両者のスパーリングは一方的なものでした。

短時間でダブルリストロックを極め、ポジェロをあっさりと破ったのです。

それは、ポジェロの弟子であるビリー・バータスが行っても全く同じ結果でした。

オークリーはヘンリー・アースリンガーが何故シェリーを手放したか、その理由をはっきりと理解しました。


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