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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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まぼろしのシューター 前編総集編4

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ペセックとの死闘

トラスト・バスターの雄、ジャック・シェリーと、全米最強のポリスマン、ジョン・ペセックの最初の激突は、1927316日、オハイオ州コロンバスのメモリアル・ホールで実現しました。

この試合については、1週間後に内容を詳しく報道したネブラスカの新聞記事があるので、そちらを要訳してみます。 

当時のプロレス界における時代背景を、うっすらと感じ取ることが出来ると思います。

私の拙い訳文は、何卒ご容赦下さい。

なお文中のカッコ書きは、私の手によるものです。

リンカーンNEスター紙 1927323日(水)シカゴ(特派員)の記事より

マーシュは子飼いのインディアン(原文ママ) のヘビー級(レスラー)、シェリーを“ポリスマン”ジョン・ペセックと対戦させた。
後者は1本目を失い、その後反則行為により試合を没収された。

シカゴ・ミステリーのひとつが解明された。北ミシガン通りの一角に建てられたオフィスより発せられた騒音の正体が明らかになったのだ。レスリング・トラストの天敵、ジョー・マーシュは周辺一帯の治安と静寂を乱し、大きな笑い声をあげ続けた。
その理由とは――。

ジョーの新たなる子飼い、ヘビー級レスリングの天才、アラスカ出身のインディアン(原文ママ)、ジャック・シェリーが“ネブラスカの虎”ジョン・ペセックを先週オハイオ・コロンバスにおいて破った。ジョーは、この大勝利を喜ばずにはおれなかったのだ。

シェリーの「ペセック戦勝利」のニュース報道は、何故かすぐには伝わらなかった。この原因は、新聞協会がコロンバスのこの番狂わせを取材することに失敗したことにあった。それでもなお、ジョー子飼いのインディアン選手(シェリー)が実際にタイガーマン(ペセック)の肩をマットに押さえ込んだ(ピンフォール)という事実は明らかであり、それ故にマーシュ当人が自分の被後見人(シェリー)に代わって、(彼の)世界王座を主張するために突然姿を現し、子飼いのシェリーとステッカー、ルイス、あるいはトラスト側が指名するであろうその他のレスラーとの対戦を要求する声明を行った。

「私は10年近くもトラストと戦ってきた」
マーシュは笑みを浮かべながら言った。
「奴らはマリン・プレスチナが私に(トラストとの闘争を)やめて、トラストと手を組むよう説得に来た時、私がもうこれで落ち目になって消えていくのだと考えた。だが奴らは、もうひとつの心配をしなけりゃならなかったんだ」
「トラストはシェリーの対戦相手に“ポリスマン”ジョン・ペセックを使い、シェリーを使いものにならなくするという古臭い手口を使った。だが、その計画は台無しになった」
「シェリーはペセックには荷が重すぎた。トラストがリスク覚悟で(ジョー)ステッカー、ルイス、あるいは他の奴を差し向けてきても結果は同じだろう」
「私はシェリーが世界王者であると主張し、(シェリーは)世界のいかなるヘビー級(レスラー)とでも対戦する用意がある」

コロンバスの新聞に掲載されたシェリー・ペセック戦の記事がシカゴに届いた。その報道により、シェリーがペセックを果敢に攻撃し、タイガーマンにわずかの見せ場を与えた後、「フライングメイヤー」の連発で呼吸困難にした上てペセックを842秒、クラッチホールドとハーフネルソンの複合技によるピンフォールで、1本目の勝利を得たことが明らかになった。その後アラスカのレスラー(シェリー)は、故意に彼をロープ越しにリング外へ放り投げたペセックの反則行為により、2本目の勝利を告げられた。シェリーは頭から落下し、気絶させられた。レフェリーのシッソンは即座にペセックを失格とし、シェリーに(2本目の)勝利を与えた。よって彼がこの試合の勝利者になった――。

シェリーはこの死闘の勝者となりましたが、ペセックからリング下に投げ落とされた際に背骨を強打し、病院送りとなりました。

ペセックは、きっちりと自分の「仕事」を完遂したわけです。

つまり、シェリーは「名」をとり、ペセックが「実」をとった、と言い換えることも出来るでしょう。

さて、ペセック戦に勝利したシェリーでしたが、この後に彼とマーシュが望んだルイスやステッカーとの対戦は行われておりません。

他ならぬシェリーが、突然プロボクサーに転向してしまったのです。


プロボクサー・シェリー

ジャック・シェリーがプロボクサーに転向したのは、1927年後半か、1928年前半のあたりだと思われます。

彼が何故ボクサーに転向したのか、詳しい理由はわかりません。

マネージャーであるジョー・キャロル・マーシュとの仲違いか、トラスト・バスターとしてのレスラー生活に限界を感じたのか、恐らくはそんなことだろうと推測が可能です。

恐らく生来の腕っ節の強さを過信してのボクサー転向だったと思いますが、プロボクシングの世界はそんなに甘くありません。
1923
年の同じ週末に行われたレスリング、ボクシング両競技の全米大会に参加し、いずれもAAU王者になったポール・バーレンバッハや、レスリングのオリンピック銀メダリストからボクシングに転向し、わずかの期間でこちらでも全米王者となったダニー・ホッジの存在が、極めて特別な例なのです。

彼のプロボクサーとしての試合記録が、ひとつだけ残っております。
1928
815日のカリフォルニア州ウィルミントンで行われた、レス・ケネディ(Les Kennedy)との一戦です。

ケネディは世界王者になる前のマックス・ベアと1勝1敗の五分の戦績を残し、後年プロレスラーとなるプリモ・カルネラともグローブを交えたことのある、当時のトップ・ボクサーのひとりでした。
この試合、シェリーはわずか1ラウンドでマットに沈みました。
ケネディは後年のインタビューで、シェリーとはもう一戦行っており、再びKOで破ったと語っております。

ケネディとの2戦が、ボクサー、シェリーの全戦績であるとは言い切れませんが、いずれにせよそんなに多くの試合数はこなしておりません。
シェリーのボクシング生活は、わずかな期間で終わりました。

ボクサー生活を断念したシェリーに残された道は、プロレスへの復帰しかありませんが、マーシュと別れた時点で、トラスト・バスターへ戻る道は断たれています。

彼が選択すべき進路は、ひとつしか残されておりませんでした。


トラストへの従属

シェリーのレスラーとしての記録は、1928年の125日のカリフォルニア州ロサンゼルスにおける試合、そして同年918日のテキサス州ビューモントにおける試合が判明しておりますので、彼のボクシング転向の期間がかなり短いものであったことがわかります。

先に述べたレス・ケネディ戦が同年815日ですので、この試合がボクサー・シェリーのラストマッチだったのでしょう。

そして年明けの192919日、シェリーは因縁の宿敵、“タイガーマン”・ジョン・ペセックと約2年ぶりに相見えます。

場所は前回と同じオハイオ州コロンバス、今回の会場はクォリティ・クラブが選ばれました。

プロモーターは、この当時ペセックのマネージメントを取り仕切っており、後年はヨーロッパからアメリカ入りしたばかりのカール・ゴッチを重用したことでも有名なアル・ハフトです。

この試合でシェリーは前回と打って変わり、ペセックに2-0のストレート負けを喫しております。

1本目は45分にハンマー・ロックで、2本目も全く同じ技で、何と2分弱であっさりとギブアップさせられるという惨敗です。

この試合に、私は不可解なものを感じております。

もちろん単なる勝敗や、レスラー同士の強弱の問題ではありません。

全米指折りのシューターであったシェリーが、果たして2本立て続けに同じ技で、しかもかように短いタイムでライバルとの一戦を棄てるだろうか、という不可解さです。

ここからは、私の推論です。

ボクサーを断念し、プロレス界に戻ったシェリーを快く迎える者は誰もおりません。

それまでのジョー・キャロル・マーシュとのコンビは、シェリーがボクサーに転向した時点で解消しており、彼自身にトラスト・バスターとして、自らを売り込み試合に出場するプロモーション能力があったとは思えません。

残された選択肢はひとつです。

私はこのペセック戦こそ、彼が今後トラスト傘下のいちレスラーとして、決して体制に逆らわず従順に試合を「ともに作っていく」ことを宣誓する「忠誠の証」だったのではないかと想像しています。

かくしてトラストとトラスト・バスターの闘いの歴史は、トラスト側が彼らを飲み込む形で、1920年代と共に終焉を迎えました。

さて1930年代前半のシェリーの試合は、ニューヨークやボストン周辺で数多く散見されます。

エド・ダン・ジョージやガス・ゾネンバーグ、ヘンリー・デグレーン、そしてジム・ブロウニンなど当時のトップ・レスラーたちと数多くの対戦がありますが、試合結果は敗戦もしくはドロー・マッチのみで、勝利するのはあまり名の知れていない中級クラスのレスラーに限られております。

それが、トラストが彼に与えたポジションである、と言ってよいでしょう。

そのままこのポジションに甘んじていれば、ジャック・シェリーというレスラーの名前は、歴史の中に埋もれてしまったことでしょう。

ですが、そんな彼に大きなチャンスが巡ってきました。


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