トラスト・バスターVSポリスマン
初代トラストバスターであったセルビア系レスラー、マリン・プレスチナに話を戻します。
プレスチナがファーマー・バーンズの教え子だったということは前にお話ししましたが、彼は同時にバーンズ・キャンプにおける、フランク・ゴッチのスパーリング・パートナーでもありました。
それはプレスチナの実力が、ゴッチの世界王者時代から折り紙つきだったことを示します。
彼が頭角を現わし始めたのは、1911年9月にゴッチがジョージ・ハッケンシュミットを再び破り、世界プロレス界における地位を完全に確立した翌1912年のことです。
この年の2月から3月にかけて、プレスチナは3度に渡ってゴッチの対戦相手を務めています。
そして彼の出世試合と言えるのが1914年2月、ケンタッキー州レキシントンにおけるエド・“ストラングラー”・ルイスとの「ザ・ストラングル・ホールド・チャンピオンシップ・オブ・ザ・ワールド」(“世界絞め殺し王”決定戦とでも訳しましょうか)です。
彼は、この2度の試合で“絞め殺し屋”の異名を持つルイスに勝ち越し、一躍トップ・レスラーの仲間入りを果たします。
「ターザン・オブ・ザ・マット」のニックネームを与えられ、フランク・ゴッチの後年のマネージャーであったエミール・クランクが彼についたのも、この頃のようです。
ジョー・ステッカー、スタニスラウスとワルディックのズビスコ兄弟、アール・キャドック、フレッド・ビール、チャーリー・カトラーといった、当時のアメリカのトップ中のトップたちとの対戦記録も、この時期から散見しています。
プレスチナが当時指折りのシューターであったのは間違いないですが、スロー・ペースで試合を行うことでも知られ、腰が重く、持って生れたパワーで相手を圧倒するタイプのレスラーだったようです。
後年のレスラーで言えばジョージ・ゴーディエンコが、タイプとしてプレスチナに最も近い存在かも知れません。
彼がもし、そのまま順調にレスラー生活を続けていれば、近い将来世界王座争いの一角をなしていたことは間違いありません。
そのトップ・レスラーの地位を捨て、師であるバーンズとジョー・キャロル・マーシュの要請に応じて『トラスト・バスター』として生きる道を選択したのですから、プレスチナというレスラーは相当に「男気」がある人物だったのでしょう。
ちなみにプレスチナとマーシュはコンビを組む際、「絶対に不正な試合を行わない」と誓いを立てたと伝えられております。
トラスト・バスター、プレスチナと『トラスト』傘下のレスラーたちとの対戦記録は数多く残されておりますが、その中で最も有名かつ壮絶な試合と言われているのが、1921年10月14日、ニューヨークで行われた『ポリスマン』“タイガーマン”・ジョン・ペセックとの一戦です。
「2時間3本勝負・テイク・アット・オール(勝者が賞金を総取り)」で行われたこの試合のリングサイドには、アーネスト・ローバー、トム・ジェンキンスなど、大勢のオールド・タイマーたちの顔がありました。
プレスチナのストラングル・ホールドと、ペセックのサブミッションが真っ向激突した壮絶なシュート・マッチは、2-0のストレートでプレスチナの勝ちとなりましたが、いずれもペセックのパンチ攻撃による反則負けであり、片目を潰されたプレスチナは、試合直後に病院に担ぎ込まれました。
ペセックにとっては勝利は二の次、肝心なのはプレスチナに如何に決定的なダメージを与えるか、にありました。
かくも壮絶なトラスト・バスターとしての生活を続けていたプレスチナですが、1926年頃に突然マーシュとのパートナー・シップを解消し、トラスト傘下へと移っていきました。
シュートとコンテスト
マリン・プレスチナが、突然ジョー・キャロル・マーシュとのコンビを一方的に解消し、『トラストバスター』の異名を捨て『トラスト』の傘下へと走り去った原因について、一説にはエド・“ストラングラー”・ルイスの別荘で行われたルイスとの『プライベート・マッチ』で、ルイスがプレスチナをグラウンドで圧倒し、意気消沈した彼のトラスト入りの密約はその時に交わされた、と伝えられております。
ちなみにトラスト傘下に入ったプレスチナは、破格の扱いを受けたようです。
そのトラスト内でのデビューを飾ったエキビジション・マッチでは、当時の金額で7,500ドルという大金が支払われたと言われています。
但し、ずっと後年になってマーシュと和解したプレスチナは、彼に「トラストへ移ってから公正な試合など一度も行ったことはなかった」と告白しています。
さて、プレスチナに去られたマーシュは、その後どうなったのでしょう。
彼はプレスチナに変わるパートナーとして、同じくバーンズ門下の屈強なシューターを選びました。
そのマーシュの新しいパートナーこそ、本項の主人公であるジャック・シェリーだったのです。
バーンズのキャンプを訪れレスリングの指導を受ける以前から、シェリーのシューターとしての実力は知れ渡っておりました。
1920年当時、シェリーはワイオミング州ロック・スプリングスを主戦場にしておりましたが、下の写真はこの当時のシェリーの活躍を地元新聞が特集した記事です(同年11月5日付)。
記事にはシェリーが同年7月23日に、『タイガー・ジョー・クラマ―』 (Tiger Joe Kramer)と名乗っていた当時のトーツ・モントと対戦し破ったことや、10月28日にのちに世界王者となる“黄金のギリシャ人”ジム・ロンドスと対戦し、ヘッド・シザースとアーム・ロックの複合技で1本目を先取するものの、2本目、3本目を続けてロンドスの“フライング・ヘッド・ロック”で投げられ、2-1で破れたことなどが書かれております(このロンドス戦はある種の『ハンディ・キャップ・マッチ』で、「2時間の内にロンドスが2回シェリーを投げられたらロンドスの勝ち」というルールの元で行われたようです)。
『ポリスマン』として名高いモントとの対戦ですが、彼がエド・ルイスやビリー・サンドウとトリオを組むのは1922年のことですから、この一戦はバーンズ・キャンプを“卒業”したばかりのモントと、シェリーによる「シューター同士」の『コンテスト・マッチ』であったと言えるでしょう。
ちなみに両者は、シェリーがバーンズ・キャンプを出たのち(あるいは彼がバーンズの『ATショー』に出ていた当時)である1922年1月16日に、バーンズをレフェリーとして再戦しており、シェリーが再びモントを下しております。
上記の試合もそうですが、バーンズは自分の門下生であるシューター同士のコンテスト・マッチをマッチメイクする「趣味」があったようで、この試合以外にもやはりバーンズ門下同士である、マリン・プレスチナとチャーリー・ハンセンの試合をマッチメイクしております。
これは余談ですが、「シュート・マッチとコンテスト・マッチの違い」について少し私見を述べさせて頂きます。
日本ではどちらも「ガチンコ」あるいは「セメント」と表現されており、いずれもレスラーの意思、またはそういう試合が好みのプロモーターのリクエストで行われますが、意味するところは全く異なります。
コンテスト・マッチは、あくまで両者合意の上で行われるサブミッションも含めたレスリング内の試合、純粋にレスラー同士が互いの優劣を決めるためのものです。
「プロレスにおける競技試合」と言い換えることができ、観客の前で行うことも可能ですが、一般人の目には「恐ろしく退屈な試合」に映ることでしょう。
対してシュート・マッチは、「仕掛ける」という言葉が物語るように、相手を負傷させ壊すことを目的で行われる試合、プロモーターがいずれか一方のレスラーに要請、あるいは一方のレスラーの意思により行われます。
当然ルールなど度外視され、観客の前で見せられる類のものではなく、基本的にプロレスの試合としては成立しません。
ですから後者の試合を仕掛けられるレスラー、または仕掛けられたときに即応可能な技術を持つ、あるいはそういう覚悟を持った喧嘩度胸のあるレスラーを欧米では区別なく「シューター」と言います。
つまり、それがサブミッションに卓越したレスラーのみを表す言葉ではない、ということがお分かり頂けるでしょうか。
ここで上記3戦以外の、この当時のシェリーの主な試合を少しだけ列記してみます。
1920年10月28日・ロック・スプリングス、ロンドスと再戦するも、試合途中の負傷で棄権敗退
1921年10月5日・ロック・スプリングス、タロー・ミヤケ(三宅多留次)に勝利
1921年12月2日・ロック・スプリングス、ジャック・テイラーに勝利
1921年12月6日・ユタ州オグデン、アド・サンテルに破れる
対戦相手とその戦績を見れば、バーンズの薫陶を受けたシェリーがいかに凄まじいシューターへと変貌を遂げているか、容易に想像することができます。
彼は上記のようなシューターたちを含む、全米のトップ・レスラーたちとの死闘を、マーシュと出会う1926年前後までの期間も続けていたのです。
さて、1926年頃にマーシュと組んでトラスト・バスターとなり、トラスト・サイドを震撼させたシェリーの前に、とんでもない難敵が立ちはだかります。
全米最強のポリスマン、“タイガーマン”・ジョン・ペセックです。