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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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まぼろしのシューター 前編総集編2

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ジョー・キャロル・マーシュ



アメリカのプロレス界に「トラスト・バスター」という言葉が生れたのは、1917年頃のことです。

この経緯をご説明するには、もうひとりの人物を登場させねばなりません。

ジョー・マーシュ(Joe Marsh)なる人物です。

話は一旦、ジャック・シェリーから脱線致します。

マーシュの本名はジョージ・M・マーシュといい、1869年にアイオワ州で生れました。

彼は長じてミドル級のプロレスラーとなり、19世紀の終わり頃から にお話ししたファーマー・バーンズと組んで、プロレスの全国巡業を行っておりました。

つまり「バーンズ一座」の番頭格だったわけです。

そして、当時のトップレスラーのひとりだったダン・マクロードの興行に飛び入りで参加し、マクロードを相手に善戦したという、アイオワ州ハンボルトの農家の少年、フランク・ゴッチを「バーンズ一座」にスカウトし、バーンズと共に英才教育を施したのも、このマーシュだと伝えられております。

やがてゴッチが一人前のレスラーになり、「フランク・ケネディ」の名前で当時ゴールドラッシュに沸くカナダのクロンダイク(アラスカと国境を挟んで隣接した州)に巡業した折には、ゴッチのマネージャー兼対戦相手として、彼の出世に大きく貢献しました。
この当時マーシュは、必要に応じて「オーレ・マーシュ」、「ジョー・キャロル」、「テリブル・スウェード(恐怖のスウェーデン人)」、そして「チャンピオン・レスラー・オブ・ザ・ユーコン」などと、名前を使い分けていたようです。

アメリカに戻ったマーシュは1903年頃レスラー業を辞め、「ジョー・キャロル」(Joe Carroll)の名で正式にゴッチのマネージャーに就任しました。

ゴッチとマーシュのパートナーシップはその後しばらく続きますが、ゴッチが「アメリカス王座」を間に挟んで、トム・ジェンキンスと抗争を行っていた最中の1906年前後に、両者は袂を分かちます。


現役時代全般を通じて、その後のゴッチのマネージャーはエミール・クランクという人物が務めましたが、マーシュのマネージメントの手腕を買っていたゴッチは、再三再四マーシュにマネージャー復帰を促しますが、彼は固辞し続けたようです。

ゴッチは後年、マーシュはあらゆるマネージャーの中で最も素晴らしく、この競技が知られるようになってから最も聡明で才能あるレスラーのひとりだった、と述懐しています。

さて、ゴッチとパートナーを解消したマーシュはワシントン州シアトルに定着し、現地でプロレスのプロモーターやマネージャーを生業と致します。
1907
年前後には、これも当時のトップレスラーだったベンジャミン・フランクリン・ローラーのマネージャーを務めたこともありました。
さらに1909年には、バート・ワーナーなるレスラーのマネージャーを務めますが、この時「事件」は起こりました。


全国規模でギャンブルの詐欺行為を行っていたジョン・
C・マイブレイ(John C. Maybray)が率いるギャング集団の一員として、マーシュとワーナーも他の82名と共に告発され、逮捕されたのです。

マイブレイ・ギャングは当時賭けの対象になっていた競馬やボクシング、それにプロレスリングの試合において「不正行為」を行い、2年間でおよそ200万ドル以上の荒稼ぎをしていた詐欺集団でした。

この中のプロレス試合における「不正行為」に、マーシュも加担していたのです。

余談ですが、ギャングが「賭けの対象としていた」、あるいは「仕組まれた試合を行ったことにより罰せられた」ことから判断すれば、当時行われていたプロレスの試合は、特別な場合を除いて通常は「コンテスト・マッチ」(予め勝敗を決めていない試合)だったと言うことができます。

この点に関して、マーシュ本人が後年このように言及しています(私の拙い訳文です)。


「昔の連中は、今とはいくらか違うのかと聞くのかい。俺は“全く違う”と答えるよ。最近(
1930年代)のレスラーを全員ひっくるめた数よりも、俺は1年間でずっと多いシューティング・マッチをこなしてたよ。相手の大小問わず、それを15年以上さ。これは俺が特別だったわけじゃなく、当時はみんなそうだったって意味だぜ」


話を戻します。

1911年に釈放されたマーシュは、「ジョー・キャロル・マーシュ」(Joe Carroll Marsh)の名でプロモーターに復帰し細々とプロモーター業を続けておりましたが、1917年に昔のパートナーであるファーマー・バーンズに懇願され、バーンズの愛弟子であるマリン・プレスチナ(Marin Plestina)のマネージメントを引き受けます。


1915
年頃に結成されたプロモーターたちの「トラスト」により、昔ながらのバーンストーミング(全国巡業)形式の興行を行う一団はプロレス界から締め出されました。

それは、「アメリカン・プロレスの創始者」とも言うべきファーマー・バーンズ率いる一団も、決して例外ではありませんでした。

バーンズ門下の実力者であるプレスチナをパートナーに、マーシュの「反トラスト」の闘いが開始されました。

そしてこれがのちに全米のプロモーターを震撼させた、トラスト・バスターの始まりです。


ですからトラスト・バスター誕生の背景には、トラスト体制に一矢報わんとするファーマー・バーンズとジョー・キャロル・マーシュの存在があったわけです。



ポリスマン


今回も前回同様、ジャック・シェリーから離れた話になりますが、もう少しお付き合い下さい。


前回私は、「トラスト・バスター誕生の背景には、トラスト体制に一矢報わんとするファーマー・バーンズとジョー・キャロル・マーシュの存在があった」と書きました。

それは、当時トラスト・バスターと呼ばれた数少ないレスラーの内の何人かが、ファーマー・バーンズのオマハにおけるレスリング・キャンプで彼の指導を仰いでいたことでもわかります。

具体名で言えば、その元祖ともいえるマリン・プレスチナ、チャールズ・ハンセン、そしてあとからトラスト・バスターとなったジャック・シェリーもこれに該当します。


もちろん全てのトラスト・バスターが、バーンズ門下だったわけではありません。

マーシュとプレスチナの蜂起を耳にして、我も続けとばかりに体制に闘いを挑んだ『ドン・キホーテ』は他にもおりました。

トラスト・バスターとしてプロレス界を生き抜く彼らのレスラー生活は、過酷なものでした。
基本的にターゲットとなるトップ・レスラーと対戦するためには、その雇い主であるプロモーターが彼らの挑発に乗り、自らのリングに上げることが前提となります。

そしてその選択権は、当然プロモーター・サイドが握っているのです。


さらに、彼らの闘うリングが用意されたとしても、いきなりトップ・レスラーと対戦できることは稀です。

まずは、プロモーター側が「対トラスト・バスター用」に雇い入れた『ポリスマン』(policeman)とのリング上、あるいはプライベート・マッチ(ジムなど観客不在の場所で数人の立会の元で実際の優劣を競うために行われるシュート・マッチ)での対戦という第一関門が待っています。


ポリスマンについて、少し説明を致します。

「トラスト・バスター」と比べて比較的耳なじみのある「ポリスマン」という単語がプロレス界で用いられるようになったのが、この時代からであったのかははっきりしませんが、恐らくもう少し歴史を遡るものと思われます。

彼らは、トップ・レスラーに個人的に雇われる場合と、各テリトリーのプロモーターに雇われる場合とが考えられます。

その役割はいくつかあります。

「雇い主」がプロモーターであるか、彼らと同じレスラーであるかによって若干異なりますが、他のテリトリーから来た実力が未知数であるレスラーの力量を、実戦を通して測る役割、テリトリー内の不満分子や不要と見做されたレスラーを懲らしめる、あるいは潰しにかかる役割、そして自らが「防波堤」となり、テリトリーのトップをその座から引きずり降ろそうと虎視眈々と狙うトラスタ・バスターや敵対するプロモーターの息のかかった連中に、自分の段階で「致命傷」を負わせ、トップ・レスラーまで辿り着けないように食い止める役割などです。


つまり彼らにとって勝ち負けは二の次、肝心なのは「依頼主」から命ぜられた任務を完璧に遂行することにあります。

ですから彼らにはトラスト・バスターと同等、あるいはそれ以上の高等技術と強さが要求されることになります。
そこにはトラストバスターとは別の意味で、いにしえの「仕事師」の佇まいを感じとることができると思います。


ポリスマンについて、わかりやすい例を挙げてみましょう。

かつての新日本プロレスでは、猪木が大試合で初めて対戦する、実力未知数の選手と事前にスパーリングを行い、その実力やウィークポイントを見極める役割を果たしていたと言われる藤原喜明が、猪木の付き人兼任の「ポリスマン」であった、というのは今や「公然の事実」と言えるでしょう。


もうひとつの例は実際には行われませんでしたが、あまりにも凄まじいものです。


1975
年暮れに開催された全日本プロレスの「オープン選手権」、この大会には日本プロレス史上空前とも言える豪華メンバーが集結しましたが、その発表の段階においてジャイアント馬場は、「国の内外を問わず広く門戸を開放する」と明言しました。
これは、それまで再三に渡りあらゆる手段で馬場への挑戦を表明してきたアントニオ猪木に対する、彼からの「回答」でありました。


「もしこの大会に参加して下されば、貴方が常日頃公言されている、私との対戦が実現する可能性もありますよ」


というわけです。


但し「慎重居士」と呼ばれた馬場のことですから、その計画に抜かりはありません。

この時馬場は万が一猪木が参加してきた場合に備え、参加メンバーにパット・オコーナー、ドン・レオ・ジョナサン、ハーリー・レイス、バロン・フォン・ラシク、ディック・マードックといった、レスリングにも喧嘩にも強い連中をズラリと揃え、猪木に彼らを次々にぶつけ、猪木が馬場に辿り着く前に潰してしまおうと画策していた、と伝えられています。

つまり前記の連中は、全日本プロレスのプロモーター兼トップ・レスラーである馬場に雇われた「ポリスマン」だったわけです。


もし猪木がこのときオープン選手権に参加していたとしたら、馬場は上記の計画を実行に移したことは明らかであり、猪木は念願の馬場との対戦を実現するために、彼らと連日のようにシュート・マッチを行う羽目になったことでしょう。


結局猪木はこの大会に参加せず、馬場のプランが遂行されることはありませんでしたが、1920年代のトラスト・バスターたちは、実際にプロモーターが指定したタフな連中とのシュート・マッチを毎回こなしていたわけです。

1920年代、ポリスマンとして最も有名なレスラーは、“ネブラスカ・タイガー”の異名を誇ったジョン・ペセック(John Pesek)と、後年はプロモーターとしても有名になったジョセフ・“トーツ”・モント(Josef “Toots” Mondt)の2名です。


ペセックとモント

前回ご紹介した、
20年代を代表するふたりの『ポリスマン』、“タイガーマン”・ジョン・ペセックとジョセフ・“トーツ”・モント。

この両者には、いくつかの共通点があります。


まずは、両者ともに1894年生まれであること(但しモントには「1886年誕生説」も存在します)が挙げられます。

巷間伝えられるエド・ストラングラー・ルイスの生まれが1890年ですから、彼らはルイスよりも4歳ほど年下になります。

そしてこれも偶然ながら、本項の主人公であるジャック・シェリーも、ペセック、モントと全く同じ年の生まれです。


続いて、ペセック、モントは、それぞれネブラスカ州ラヴェンナ、アイオワ州ウェイン郡と場所こそ違え、農家の息子として生まれ、幼い頃から一家の重要な働き手として農作業に従事しています。

この生活が、彼らレスラーにとって最も重要な、強靭な足腰を自然に育んだものと思われます。


そしてこれが一番大切なことですが、このふたりもシェリー同様、“アメリカン・プロレスの父”マーチン・ファーマー・バーンズにレスリングの指導を受けていた時期があった、ということです。

ネブラスカ州オマハのバーンズの元を訪れたのは、ペセックが最も早く1916年頃、モントが1919年頃、そしてシェリーが1921年頃と言われておりますから、滞在時期こそ重複しておりませんが、のちに時代を代表するポリスマン、トラストバスターに成長し、壮絶な闘いを行ったこの3名は、日本流に言えばバーンズ一門の「兄弟弟子」と言うことになります。


我々日本人の感覚で言えば、これぞ「奇しき因縁」ということになるのでしょうが、欧米人にはそういう意識というのが、恐らく非常に希薄なのでしょう。

それと同時に当時の一流レスラーの「師弟の系譜」を辿っていけば、恐らくその8割はバーンズに行き当たるでしょうから、別段特筆すべきことでもないのかも知れません。

昭和の日本人プロレスラーのルーツを辿っていけば、ほぼ100%力道山に行き着くのと同じことです。


ペセック、モントは、今後も本項の重要人物のひとりとして登場致しますが、その詳細なプロフィールについては、別の機会にじっくり書いてみたいと思います。


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