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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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まぼろしのシューター 前編総集編1

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昨年連載していた「まぼろしのシューター」は、中断したまま1年以上が経過してしまいました。
楽しみにしていらした少数の方には、大変申し訳のないことでした。

年明けから連載を再開したいと思いますが、この1年の間に新たに読者になられた方のために、これまでのお話を一気に書いていきます。

写真は割愛致しますが、ご興味のある方はブログテーマの「まぼろしのシューター」から辿って頂ければ幸甚です。


壁の写真

2010年7月末に、我が家は引越しを致しました。

部屋の中はまだ段ボールだらけ、いかにこれらの荷物を収納していくか、毎日頭を悩ませております。


そんな雑然とした部屋ですが、何よりもまず真っ先に机の脇の壁面に飾った、ひとりのプロレスラーの小さな写真があります。

長いことプロレスを見続けて、古い時代についても色々調べておりますので、好きなレスラーは古今東西を問わず大勢いるのですが、その中でも一番好きなレスラーの写真です。

彼の名は、ジャック・シェリー(Jack Sherry)といいます。

このブログを読まれている殆どの方は、耳にしたことのない名前だと思います。

日本のプロレス・マスコミでは、あまり取り上げられたことはありません。

ですが、アメリカやイギリスのプロレス史家の間では、非常に評価の高いレスラーのひとりです。

アメリカでは文字通り“無冠の帝王”的存在であり、“鉄人”ルー・テーズの師匠格であった“絞め殺し”エド・ストラングラー・ルイスが最も恐れたシューター、そして戦前のイギリス・マットで堂々と世界王者を名乗りました。


断続的ですが、何回かに渡って彼について書いていきます。

私が彼に惹かれる理由も、きっとおわかり頂けると思います。



プロレスラーになるまで


ジャック・シェリーの本名は、アイヴァン・セリック(
Ivan Seric)と言います。

アメリカでは現在でも、一見東洋系に見える彼の顔立ちから、「シェリーにはアラスカに住むネイティヴ・アメリカン(エスキモー)の血が流れている」と公言するプロレス史家が多いようですが、事実は異なります。


1894
1018日、オーストリア・ハンガリー帝国クロアチア地域(のちのユーゴスラビア現クロアチア)で、シェリーはクロアチア人の両親の間に生を享けました。

そして彼の幼年期に、セリック一家は大西洋を渡りアメリカに移住、炭鉱 の町として知られるミネソタ州ヒビングスに居を構え、シェリーはこの地で青年期まで過ごしたようです。

彼の強靭な肉体(全盛時の身長約180cm、体重100kg前後)は、恐らく少年期からの石炭の採掘によって育まれたものだと思われます。


シェリーは1916年、22歳の頃にこの町を離れ、当時まだゴールドラッシュに沸くアラスカへと向かいます。

彼の当初の目的は金の採掘にあったと推測できますが、やがてその肉体を生かして、レスリングやウェートリフティングのコンテストに出場するようになります。

多分それが彼の能力、性分に合っていたのでしょう。

彼はプロレスラーになるべく、太平洋沿岸へと南下していきます。

ちなみに、後年シェリーのレスラーとしてのプロフィールの多くに「アラスカ出身」とあるのは、この時期の「経歴」が大きく影響しているものと思われます。


1919
年の新聞に、プロレスラーとなったシェリーの、恐らく初期の頃と思われる試合の記事が掲載されています。

カリフォルニア州オックスナード・オペラハウスにて行われた「アスレチック・ショー」に、シェリーは「パシフィック・ノースウエスト王者」の肩書で出場、ピーター・ジェイムズなるギリシャ人レスラーを相手に勝利を収めております。

少しだけ、解説致します。

ご存知に方もいらっしゃると思いますが、「アスレチック・ショー」(略称 ATショー」)とは、レスラーやボクサー(ごく稀に柔術家)で構成された一座を組んで各地を巡業(「バーンストーミング」と呼ばれます)し、現地で開催されているカーニバルの一環、または自己主催で、レスリングやボクシング、あるいはその「ミクスド・マッチ」(混成試合)といった試合が行われる興行です。

一般的に「カーニバル・レスリング」と同義語で用いられることが多い、こうした形式の興行は、アメリカでは1960年代あたりまで行われていたようです。


AT ショーで最も特徴的なのは、観客の中から挑戦者を募りリングに上げ、レスラーと対戦させ、「もし○分以上持ち堪えたら賞金●●ドル進呈」といった「アトラクション」が存在することです。
こうした場合、レスリング経験者や地元の腕自慢など、どのような挑戦者が現れるやも知れず、そういった未知の挑戦者の相手をするレスラーの間では、どのような人間をも短時間で簡単に降参させられる高等技術が発達しました。

俗に「フック」(hook)と呼ばれる一種のサブミッションです。

戦後、プロレスの「表舞台」ではTVの普及と共に「ショーマン・スタイル」のプロレスが人気を集め、上記の技術を持ったレスラーたちは姿を消していきますが、その「裏舞台」とも言えるこうしたATショーではその必要性から、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルに古くから伝わる、あるいは日本の柔術からヒントを得たサブミッションの使い手、いわゆる「フッカー」(hooker)が、かなり後年まで存在していたものと私は推測しています。


シェリーの足取りに話を戻します。


ATショーに出場していたシェリーは、19212月頃ネブラスカ州オマハを訪れ、当時の「名門レスリング・スクール」であったマーチン・バーンズの「レスリング・キャンプ」において、バーンズに直接指導を仰いでおります。

そう、プロレス史において「初代世界王者」とされる、かのフランク・ゴッチの師匠であり、自らも長らく「アメリカン王者」であったことでも有名なマーチン・“ファーマー”・バーンズが、ジャック・シェリーのレスリングにおける師になります。


バーンズは、英国伝統のレスリング・スタイルであり、
19世紀末からアメリカで人気となっていた「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」に、それまでアメリカのプロレスにおいて主流であった「カラー・アンド・エルボー」、「グレコローマン」の各スタイル、さらには日本の柔術のエッセンスを加え、後年「アメリカン・キャッチ」と呼ばれるプロレスリング・スタイルの体系を確立した、言わば「アメリカン・プロレスの創始者」とも言える人物です。


バーンズは指導者として前記のフランク・ゴッチの他、フレッド・ビール、アール・キャドック、トーツ・モント、ジャック・レイノルズなど、多くのトップレスラーを世に送り出しています。
そして直接指導する他にも、バーンズは通信販売用に
12巻からなるレスリングのテキスト、『The Lessons in Wrestling and Physical Culture』を1914年に発行しています。

このテキストは、当時のレスラーたちの「バイブル」であったと伝えられています。


さて、バーンズは自らもバーンストーミングの巡業団を持ち、各地で
ATショーを開催、自分の子飼いのレスラーたちを出場させておりました。

恐らくその一団の中には、バーンズの弟子のひとり、ジャック・シェリーの姿もあったことでしょう。

彼のレスリング技術の多くは、この時代に培われたものと推察致します。



トラスト・バスターという存在


1910
年代半ば頃に、プロレスというジャンルは大きな変革期を迎えました。

前回 もお話ししましたが、それまでのプロレス興行はレスラーたちが自ら一座を組み、各地を巡業しながら興行を行う「バーンストーミング」が主流でした。

もちろん世界選手権や大きなトーナメントなどを行う場合、主にボクシングの興行を取り仕切るプロモーターが介在することはありましたが、それでもレスラーの「発言権」がプロモーターのそれを大きく上回っておりました。

それが第一次世界大戦も終結に近づき社会が落ち着きを取り戻した頃、アメリカの各地にプロレス興行を専門に扱うプロモーターが続々と現れます。

彼らは興行会社を経営し、レスラーを雇い入れ、自らのオフィスを構える都市とその周辺をテリトリーとして、そのエリア内での興行を取り仕切るようになりました。

彼らの台頭は、それまでプロレス界の「ボス」的存在であったフランク・ゴッチの死(1917年)とも、決して無関係ではないでしょう。


やがて彼らは自らのテリトリーの独占と興行の安定を図るため、プロレスにおけるある種の「独占企業体」(トラスト・この場合は世界王者を認定するような「団体」と言い換えても良いかも知れません)を結成致します。

そしてその中で様々な協定を結ぶことで、各地のプロモーター同士の横の連携が一層深まりました。

お互いのテリトリーへの不可侵、プロモーション間でのレスラーのやり取りはもちろん、プロレスリングという競技そのもののルール付け(一般に「ワーク」と呼ばれる、試合の内容や決着までプロモーターが「介入」するという、プロレス独特の一種の約束事。「ワーク」については、回を改めて詳しく説明する機会があると思います)にまで及ぶこれらの協定により、プロモーターはレスラーたちを支配下に置き、自らの意のままに興行全体を掌握することが可能となりました。


当時、世界タイトルの変遷に大きく関わっていたトップレスラー、エド・“ストラングラー”・ルイスが「物分りの良い」人物であったのも、この協定の締結には好都合でした。

つまり、実力者ルイスとそのマネージャーであったビリー・サンドウ、そしてポリスマンのトーツ・モント(彼らは「ゴールド・ダスト・トリオ」と名づけられました)の「暗躍」と主要プロモーターたちの「思惑」が、そのまま1910年代半ば以降の「世界タイトル変遷史」である、と言っても過言ではないのです。


全米のレスラーたちの多くは、プロモーターたちに従属する形でその傘下に身を置きました。

プロレスを糧として生きていくためには、抗いようのない選択です。

ただしレスラーの中には、プロモーターたちが勝手に作り上げた協定に身をおもねるのを潔しとせず、誰の束縛も許さず己の実力のみでプロモーターに闘いを挑んだ、名うてのシューターたちがおりました。

各地のプロモーターが取り仕切るテリトリーへ乗り込み、マスコミを扇動して当地のトップレスラーを挑発し、彼の挑戦を受けざるを得ない状況に追い込みます。

そして「実力」で当地のトップレスラーを倒し、他のテリトリーへと去っていくのです。
孤立無援の、かなり無謀とも思える行為ですが、彼らにはそれができるだけの「強さ」と「技術」が備わっておりました。


彼らは「トラスト・バスター」(
trust buster・「独禁法取締官」の意)と呼ばれ、各地のプロモーターたちを震撼させました。

アメリカ・プロレス史における1920年代とは、プロモーターとトラスト・バスターによる「暗闘の時代」でもありました。


この時代、トラスト・バスターと呼ばれた主なレスラーたちの名前を列記しておきます。

ハンス・スタインケ、フレッド・グラブマイヤー、カール・ポジェロ、チャールズ・ハンセン、ジョン・フリーバーグ、マリン・プレスチナ――。


そして、本稿の主人公であるジャック・シェリーも、そんなトラスト・バスターのひとりでありました。


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