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Channel: 那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
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Gスピリッツ次号は12月21日発売!!

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那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”


12月21日発売の『Gスピリッツ』VOL.22も含め、『イノキ・ヨーロッパ・ツアーの全貌』と題した記事を、前編後編の2回に分けて書きます。
前号のインタビューで登場したローラン・ボックを始め、関係者の証言と当時の資料を基に、謎が多いといわれるこのツアーの究明に努めます。
次号では、その2章分を19ページに亘って書きました。
お楽しみに。

■特集 相撲とプロレス

天龍源一郎
輪島大士

北尾光司
清美川
石川孝志
グレート小鹿

西脇充子
ソラキチ・マツダ
鈴川真一

■特別企画
アントニオ猪木
78
年欧州ツアーの全貌

■連載
実録―国際プロレス
アニマル浜口

コアラの国のプロレス―豪州マット裏面史―
ジャイアント馬場が送り込んだ第二次世界大戦の「幻影」

アリーバ・メヒコ
呪われた白覆面の系譜
メディコ・アセシノ/エル・エンフェルメロ/エル・グラディアドール/トルベジーノ・ブランコ

ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
ザ・デストロイヤーとの初対決


本日発売!! GスピリッツVOL.22

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那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”


■特集
相撲とプロレス

元関脇・力道山が1953年7月に日本プロ・レスリング協会を設立して以来、
この国のプロレスは時に対立しながらも「相撲」と深い関係を保ち続けてきた。
ここに描かれているのは、「西洋相撲」の世界に足を踏み入れたチカラビトたちの苦闘の歴史であり、プライドである。
涙あり、笑いあり――あまりにも人間臭く、喜怒哀楽に満ち溢れたドラマをタップリと味わっていただきたい。

[デビュー35周年記念スペシャル対談]
天龍源一郎×森岡理右

[同門対談]
輪島大士×石川孝志


北尾光司
清美川
グレート小鹿

西脇充子
ソラキチ・マツダ
鈴川真一


■特別企画
『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌
―猪木のロマンとボックの野望―(前編)

【第1章】地獄への片道切符
―ツアーまでのエピローグ―

【第2章】命を蝕む魔のロード
―イノキ・ツアーの真実―


■連載
実録―国際プロレス
【第12回】アニマル浜口(前編)

コアラの国のプロレス―豪州マット裏面史―
【第3回】馬場が送り込んだ第二次世界大戦の「幻影」

アリーバ・メヒコ
呪われた白覆面の系譜(前編)
“暗殺医師”メディコ・アセシノの栄光と悲劇

ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
【第5回】ザ・デストロイヤーとの初対決

原悦生の格闘写真美術館
【第22回】屋根裏部屋の赤鬼

まぼろしのシューター 前編総集編1

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昨年連載していた「まぼろしのシューター」は、中断したまま1年以上が経過してしまいました。
楽しみにしていらした少数の方には、大変申し訳のないことでした。

年明けから連載を再開したいと思いますが、この1年の間に新たに読者になられた方のために、これまでのお話を一気に書いていきます。

写真は割愛致しますが、ご興味のある方はブログテーマの「まぼろしのシューター」から辿って頂ければ幸甚です。


壁の写真

2010年7月末に、我が家は引越しを致しました。

部屋の中はまだ段ボールだらけ、いかにこれらの荷物を収納していくか、毎日頭を悩ませております。


そんな雑然とした部屋ですが、何よりもまず真っ先に机の脇の壁面に飾った、ひとりのプロレスラーの小さな写真があります。

長いことプロレスを見続けて、古い時代についても色々調べておりますので、好きなレスラーは古今東西を問わず大勢いるのですが、その中でも一番好きなレスラーの写真です。

彼の名は、ジャック・シェリー(Jack Sherry)といいます。

このブログを読まれている殆どの方は、耳にしたことのない名前だと思います。

日本のプロレス・マスコミでは、あまり取り上げられたことはありません。

ですが、アメリカやイギリスのプロレス史家の間では、非常に評価の高いレスラーのひとりです。

アメリカでは文字通り“無冠の帝王”的存在であり、“鉄人”ルー・テーズの師匠格であった“絞め殺し”エド・ストラングラー・ルイスが最も恐れたシューター、そして戦前のイギリス・マットで堂々と世界王者を名乗りました。


断続的ですが、何回かに渡って彼について書いていきます。

私が彼に惹かれる理由も、きっとおわかり頂けると思います。



プロレスラーになるまで


ジャック・シェリーの本名は、アイヴァン・セリック(
Ivan Seric)と言います。

アメリカでは現在でも、一見東洋系に見える彼の顔立ちから、「シェリーにはアラスカに住むネイティヴ・アメリカン(エスキモー)の血が流れている」と公言するプロレス史家が多いようですが、事実は異なります。


1894
1018日、オーストリア・ハンガリー帝国クロアチア地域(のちのユーゴスラビア現クロアチア)で、シェリーはクロアチア人の両親の間に生を享けました。

そして彼の幼年期に、セリック一家は大西洋を渡りアメリカに移住、炭鉱 の町として知られるミネソタ州ヒビングスに居を構え、シェリーはこの地で青年期まで過ごしたようです。

彼の強靭な肉体(全盛時の身長約180cm、体重100kg前後)は、恐らく少年期からの石炭の採掘によって育まれたものだと思われます。


シェリーは1916年、22歳の頃にこの町を離れ、当時まだゴールドラッシュに沸くアラスカへと向かいます。

彼の当初の目的は金の採掘にあったと推測できますが、やがてその肉体を生かして、レスリングやウェートリフティングのコンテストに出場するようになります。

多分それが彼の能力、性分に合っていたのでしょう。

彼はプロレスラーになるべく、太平洋沿岸へと南下していきます。

ちなみに、後年シェリーのレスラーとしてのプロフィールの多くに「アラスカ出身」とあるのは、この時期の「経歴」が大きく影響しているものと思われます。


1919
年の新聞に、プロレスラーとなったシェリーの、恐らく初期の頃と思われる試合の記事が掲載されています。

カリフォルニア州オックスナード・オペラハウスにて行われた「アスレチック・ショー」に、シェリーは「パシフィック・ノースウエスト王者」の肩書で出場、ピーター・ジェイムズなるギリシャ人レスラーを相手に勝利を収めております。

少しだけ、解説致します。

ご存知に方もいらっしゃると思いますが、「アスレチック・ショー」(略称 ATショー」)とは、レスラーやボクサー(ごく稀に柔術家)で構成された一座を組んで各地を巡業(「バーンストーミング」と呼ばれます)し、現地で開催されているカーニバルの一環、または自己主催で、レスリングやボクシング、あるいはその「ミクスド・マッチ」(混成試合)といった試合が行われる興行です。

一般的に「カーニバル・レスリング」と同義語で用いられることが多い、こうした形式の興行は、アメリカでは1960年代あたりまで行われていたようです。


AT ショーで最も特徴的なのは、観客の中から挑戦者を募りリングに上げ、レスラーと対戦させ、「もし○分以上持ち堪えたら賞金●●ドル進呈」といった「アトラクション」が存在することです。
こうした場合、レスリング経験者や地元の腕自慢など、どのような挑戦者が現れるやも知れず、そういった未知の挑戦者の相手をするレスラーの間では、どのような人間をも短時間で簡単に降参させられる高等技術が発達しました。

俗に「フック」(hook)と呼ばれる一種のサブミッションです。

戦後、プロレスの「表舞台」ではTVの普及と共に「ショーマン・スタイル」のプロレスが人気を集め、上記の技術を持ったレスラーたちは姿を消していきますが、その「裏舞台」とも言えるこうしたATショーではその必要性から、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルに古くから伝わる、あるいは日本の柔術からヒントを得たサブミッションの使い手、いわゆる「フッカー」(hooker)が、かなり後年まで存在していたものと私は推測しています。


シェリーの足取りに話を戻します。


ATショーに出場していたシェリーは、19212月頃ネブラスカ州オマハを訪れ、当時の「名門レスリング・スクール」であったマーチン・バーンズの「レスリング・キャンプ」において、バーンズに直接指導を仰いでおります。

そう、プロレス史において「初代世界王者」とされる、かのフランク・ゴッチの師匠であり、自らも長らく「アメリカン王者」であったことでも有名なマーチン・“ファーマー”・バーンズが、ジャック・シェリーのレスリングにおける師になります。


バーンズは、英国伝統のレスリング・スタイルであり、
19世紀末からアメリカで人気となっていた「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」に、それまでアメリカのプロレスにおいて主流であった「カラー・アンド・エルボー」、「グレコローマン」の各スタイル、さらには日本の柔術のエッセンスを加え、後年「アメリカン・キャッチ」と呼ばれるプロレスリング・スタイルの体系を確立した、言わば「アメリカン・プロレスの創始者」とも言える人物です。


バーンズは指導者として前記のフランク・ゴッチの他、フレッド・ビール、アール・キャドック、トーツ・モント、ジャック・レイノルズなど、多くのトップレスラーを世に送り出しています。
そして直接指導する他にも、バーンズは通信販売用に
12巻からなるレスリングのテキスト、『The Lessons in Wrestling and Physical Culture』を1914年に発行しています。

このテキストは、当時のレスラーたちの「バイブル」であったと伝えられています。


さて、バーンズは自らもバーンストーミングの巡業団を持ち、各地で
ATショーを開催、自分の子飼いのレスラーたちを出場させておりました。

恐らくその一団の中には、バーンズの弟子のひとり、ジャック・シェリーの姿もあったことでしょう。

彼のレスリング技術の多くは、この時代に培われたものと推察致します。



トラスト・バスターという存在


1910
年代半ば頃に、プロレスというジャンルは大きな変革期を迎えました。

前回 もお話ししましたが、それまでのプロレス興行はレスラーたちが自ら一座を組み、各地を巡業しながら興行を行う「バーンストーミング」が主流でした。

もちろん世界選手権や大きなトーナメントなどを行う場合、主にボクシングの興行を取り仕切るプロモーターが介在することはありましたが、それでもレスラーの「発言権」がプロモーターのそれを大きく上回っておりました。

それが第一次世界大戦も終結に近づき社会が落ち着きを取り戻した頃、アメリカの各地にプロレス興行を専門に扱うプロモーターが続々と現れます。

彼らは興行会社を経営し、レスラーを雇い入れ、自らのオフィスを構える都市とその周辺をテリトリーとして、そのエリア内での興行を取り仕切るようになりました。

彼らの台頭は、それまでプロレス界の「ボス」的存在であったフランク・ゴッチの死(1917年)とも、決して無関係ではないでしょう。


やがて彼らは自らのテリトリーの独占と興行の安定を図るため、プロレスにおけるある種の「独占企業体」(トラスト・この場合は世界王者を認定するような「団体」と言い換えても良いかも知れません)を結成致します。

そしてその中で様々な協定を結ぶことで、各地のプロモーター同士の横の連携が一層深まりました。

お互いのテリトリーへの不可侵、プロモーション間でのレスラーのやり取りはもちろん、プロレスリングという競技そのもののルール付け(一般に「ワーク」と呼ばれる、試合の内容や決着までプロモーターが「介入」するという、プロレス独特の一種の約束事。「ワーク」については、回を改めて詳しく説明する機会があると思います)にまで及ぶこれらの協定により、プロモーターはレスラーたちを支配下に置き、自らの意のままに興行全体を掌握することが可能となりました。


当時、世界タイトルの変遷に大きく関わっていたトップレスラー、エド・“ストラングラー”・ルイスが「物分りの良い」人物であったのも、この協定の締結には好都合でした。

つまり、実力者ルイスとそのマネージャーであったビリー・サンドウ、そしてポリスマンのトーツ・モント(彼らは「ゴールド・ダスト・トリオ」と名づけられました)の「暗躍」と主要プロモーターたちの「思惑」が、そのまま1910年代半ば以降の「世界タイトル変遷史」である、と言っても過言ではないのです。


全米のレスラーたちの多くは、プロモーターたちに従属する形でその傘下に身を置きました。

プロレスを糧として生きていくためには、抗いようのない選択です。

ただしレスラーの中には、プロモーターたちが勝手に作り上げた協定に身をおもねるのを潔しとせず、誰の束縛も許さず己の実力のみでプロモーターに闘いを挑んだ、名うてのシューターたちがおりました。

各地のプロモーターが取り仕切るテリトリーへ乗り込み、マスコミを扇動して当地のトップレスラーを挑発し、彼の挑戦を受けざるを得ない状況に追い込みます。

そして「実力」で当地のトップレスラーを倒し、他のテリトリーへと去っていくのです。
孤立無援の、かなり無謀とも思える行為ですが、彼らにはそれができるだけの「強さ」と「技術」が備わっておりました。


彼らは「トラスト・バスター」(
trust buster・「独禁法取締官」の意)と呼ばれ、各地のプロモーターたちを震撼させました。

アメリカ・プロレス史における1920年代とは、プロモーターとトラスト・バスターによる「暗闘の時代」でもありました。


この時代、トラスト・バスターと呼ばれた主なレスラーたちの名前を列記しておきます。

ハンス・スタインケ、フレッド・グラブマイヤー、カール・ポジェロ、チャールズ・ハンセン、ジョン・フリーバーグ、マリン・プレスチナ――。


そして、本稿の主人公であるジャック・シェリーも、そんなトラスト・バスターのひとりでありました。

まぼろしのシューター 前編総集編2

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ジョー・キャロル・マーシュ



アメリカのプロレス界に「トラスト・バスター」という言葉が生れたのは、1917年頃のことです。

この経緯をご説明するには、もうひとりの人物を登場させねばなりません。

ジョー・マーシュ(Joe Marsh)なる人物です。

話は一旦、ジャック・シェリーから脱線致します。

マーシュの本名はジョージ・M・マーシュといい、1869年にアイオワ州で生れました。

彼は長じてミドル級のプロレスラーとなり、19世紀の終わり頃から にお話ししたファーマー・バーンズと組んで、プロレスの全国巡業を行っておりました。

つまり「バーンズ一座」の番頭格だったわけです。

そして、当時のトップレスラーのひとりだったダン・マクロードの興行に飛び入りで参加し、マクロードを相手に善戦したという、アイオワ州ハンボルトの農家の少年、フランク・ゴッチを「バーンズ一座」にスカウトし、バーンズと共に英才教育を施したのも、このマーシュだと伝えられております。

やがてゴッチが一人前のレスラーになり、「フランク・ケネディ」の名前で当時ゴールドラッシュに沸くカナダのクロンダイク(アラスカと国境を挟んで隣接した州)に巡業した折には、ゴッチのマネージャー兼対戦相手として、彼の出世に大きく貢献しました。
この当時マーシュは、必要に応じて「オーレ・マーシュ」、「ジョー・キャロル」、「テリブル・スウェード(恐怖のスウェーデン人)」、そして「チャンピオン・レスラー・オブ・ザ・ユーコン」などと、名前を使い分けていたようです。

アメリカに戻ったマーシュは1903年頃レスラー業を辞め、「ジョー・キャロル」(Joe Carroll)の名で正式にゴッチのマネージャーに就任しました。

ゴッチとマーシュのパートナーシップはその後しばらく続きますが、ゴッチが「アメリカス王座」を間に挟んで、トム・ジェンキンスと抗争を行っていた最中の1906年前後に、両者は袂を分かちます。


現役時代全般を通じて、その後のゴッチのマネージャーはエミール・クランクという人物が務めましたが、マーシュのマネージメントの手腕を買っていたゴッチは、再三再四マーシュにマネージャー復帰を促しますが、彼は固辞し続けたようです。

ゴッチは後年、マーシュはあらゆるマネージャーの中で最も素晴らしく、この競技が知られるようになってから最も聡明で才能あるレスラーのひとりだった、と述懐しています。

さて、ゴッチとパートナーを解消したマーシュはワシントン州シアトルに定着し、現地でプロレスのプロモーターやマネージャーを生業と致します。
1907
年前後には、これも当時のトップレスラーだったベンジャミン・フランクリン・ローラーのマネージャーを務めたこともありました。
さらに1909年には、バート・ワーナーなるレスラーのマネージャーを務めますが、この時「事件」は起こりました。


全国規模でギャンブルの詐欺行為を行っていたジョン・
C・マイブレイ(John C. Maybray)が率いるギャング集団の一員として、マーシュとワーナーも他の82名と共に告発され、逮捕されたのです。

マイブレイ・ギャングは当時賭けの対象になっていた競馬やボクシング、それにプロレスリングの試合において「不正行為」を行い、2年間でおよそ200万ドル以上の荒稼ぎをしていた詐欺集団でした。

この中のプロレス試合における「不正行為」に、マーシュも加担していたのです。

余談ですが、ギャングが「賭けの対象としていた」、あるいは「仕組まれた試合を行ったことにより罰せられた」ことから判断すれば、当時行われていたプロレスの試合は、特別な場合を除いて通常は「コンテスト・マッチ」(予め勝敗を決めていない試合)だったと言うことができます。

この点に関して、マーシュ本人が後年このように言及しています(私の拙い訳文です)。


「昔の連中は、今とはいくらか違うのかと聞くのかい。俺は“全く違う”と答えるよ。最近(
1930年代)のレスラーを全員ひっくるめた数よりも、俺は1年間でずっと多いシューティング・マッチをこなしてたよ。相手の大小問わず、それを15年以上さ。これは俺が特別だったわけじゃなく、当時はみんなそうだったって意味だぜ」


話を戻します。

1911年に釈放されたマーシュは、「ジョー・キャロル・マーシュ」(Joe Carroll Marsh)の名でプロモーターに復帰し細々とプロモーター業を続けておりましたが、1917年に昔のパートナーであるファーマー・バーンズに懇願され、バーンズの愛弟子であるマリン・プレスチナ(Marin Plestina)のマネージメントを引き受けます。


1915
年頃に結成されたプロモーターたちの「トラスト」により、昔ながらのバーンストーミング(全国巡業)形式の興行を行う一団はプロレス界から締め出されました。

それは、「アメリカン・プロレスの創始者」とも言うべきファーマー・バーンズ率いる一団も、決して例外ではありませんでした。

バーンズ門下の実力者であるプレスチナをパートナーに、マーシュの「反トラスト」の闘いが開始されました。

そしてこれがのちに全米のプロモーターを震撼させた、トラスト・バスターの始まりです。


ですからトラスト・バスター誕生の背景には、トラスト体制に一矢報わんとするファーマー・バーンズとジョー・キャロル・マーシュの存在があったわけです。



ポリスマン


今回も前回同様、ジャック・シェリーから離れた話になりますが、もう少しお付き合い下さい。


前回私は、「トラスト・バスター誕生の背景には、トラスト体制に一矢報わんとするファーマー・バーンズとジョー・キャロル・マーシュの存在があった」と書きました。

それは、当時トラスト・バスターと呼ばれた数少ないレスラーの内の何人かが、ファーマー・バーンズのオマハにおけるレスリング・キャンプで彼の指導を仰いでいたことでもわかります。

具体名で言えば、その元祖ともいえるマリン・プレスチナ、チャールズ・ハンセン、そしてあとからトラスト・バスターとなったジャック・シェリーもこれに該当します。


もちろん全てのトラスト・バスターが、バーンズ門下だったわけではありません。

マーシュとプレスチナの蜂起を耳にして、我も続けとばかりに体制に闘いを挑んだ『ドン・キホーテ』は他にもおりました。

トラスト・バスターとしてプロレス界を生き抜く彼らのレスラー生活は、過酷なものでした。
基本的にターゲットとなるトップ・レスラーと対戦するためには、その雇い主であるプロモーターが彼らの挑発に乗り、自らのリングに上げることが前提となります。

そしてその選択権は、当然プロモーター・サイドが握っているのです。


さらに、彼らの闘うリングが用意されたとしても、いきなりトップ・レスラーと対戦できることは稀です。

まずは、プロモーター側が「対トラスト・バスター用」に雇い入れた『ポリスマン』(policeman)とのリング上、あるいはプライベート・マッチ(ジムなど観客不在の場所で数人の立会の元で実際の優劣を競うために行われるシュート・マッチ)での対戦という第一関門が待っています。


ポリスマンについて、少し説明を致します。

「トラスト・バスター」と比べて比較的耳なじみのある「ポリスマン」という単語がプロレス界で用いられるようになったのが、この時代からであったのかははっきりしませんが、恐らくもう少し歴史を遡るものと思われます。

彼らは、トップ・レスラーに個人的に雇われる場合と、各テリトリーのプロモーターに雇われる場合とが考えられます。

その役割はいくつかあります。

「雇い主」がプロモーターであるか、彼らと同じレスラーであるかによって若干異なりますが、他のテリトリーから来た実力が未知数であるレスラーの力量を、実戦を通して測る役割、テリトリー内の不満分子や不要と見做されたレスラーを懲らしめる、あるいは潰しにかかる役割、そして自らが「防波堤」となり、テリトリーのトップをその座から引きずり降ろそうと虎視眈々と狙うトラスタ・バスターや敵対するプロモーターの息のかかった連中に、自分の段階で「致命傷」を負わせ、トップ・レスラーまで辿り着けないように食い止める役割などです。


つまり彼らにとって勝ち負けは二の次、肝心なのは「依頼主」から命ぜられた任務を完璧に遂行することにあります。

ですから彼らにはトラスト・バスターと同等、あるいはそれ以上の高等技術と強さが要求されることになります。
そこにはトラストバスターとは別の意味で、いにしえの「仕事師」の佇まいを感じとることができると思います。


ポリスマンについて、わかりやすい例を挙げてみましょう。

かつての新日本プロレスでは、猪木が大試合で初めて対戦する、実力未知数の選手と事前にスパーリングを行い、その実力やウィークポイントを見極める役割を果たしていたと言われる藤原喜明が、猪木の付き人兼任の「ポリスマン」であった、というのは今や「公然の事実」と言えるでしょう。


もうひとつの例は実際には行われませんでしたが、あまりにも凄まじいものです。


1975
年暮れに開催された全日本プロレスの「オープン選手権」、この大会には日本プロレス史上空前とも言える豪華メンバーが集結しましたが、その発表の段階においてジャイアント馬場は、「国の内外を問わず広く門戸を開放する」と明言しました。
これは、それまで再三に渡りあらゆる手段で馬場への挑戦を表明してきたアントニオ猪木に対する、彼からの「回答」でありました。


「もしこの大会に参加して下されば、貴方が常日頃公言されている、私との対戦が実現する可能性もありますよ」


というわけです。


但し「慎重居士」と呼ばれた馬場のことですから、その計画に抜かりはありません。

この時馬場は万が一猪木が参加してきた場合に備え、参加メンバーにパット・オコーナー、ドン・レオ・ジョナサン、ハーリー・レイス、バロン・フォン・ラシク、ディック・マードックといった、レスリングにも喧嘩にも強い連中をズラリと揃え、猪木に彼らを次々にぶつけ、猪木が馬場に辿り着く前に潰してしまおうと画策していた、と伝えられています。

つまり前記の連中は、全日本プロレスのプロモーター兼トップ・レスラーである馬場に雇われた「ポリスマン」だったわけです。


もし猪木がこのときオープン選手権に参加していたとしたら、馬場は上記の計画を実行に移したことは明らかであり、猪木は念願の馬場との対戦を実現するために、彼らと連日のようにシュート・マッチを行う羽目になったことでしょう。


結局猪木はこの大会に参加せず、馬場のプランが遂行されることはありませんでしたが、1920年代のトラスト・バスターたちは、実際にプロモーターが指定したタフな連中とのシュート・マッチを毎回こなしていたわけです。

1920年代、ポリスマンとして最も有名なレスラーは、“ネブラスカ・タイガー”の異名を誇ったジョン・ペセック(John Pesek)と、後年はプロモーターとしても有名になったジョセフ・“トーツ”・モント(Josef “Toots” Mondt)の2名です。


ペセックとモント

前回ご紹介した、
20年代を代表するふたりの『ポリスマン』、“タイガーマン”・ジョン・ペセックとジョセフ・“トーツ”・モント。

この両者には、いくつかの共通点があります。


まずは、両者ともに1894年生まれであること(但しモントには「1886年誕生説」も存在します)が挙げられます。

巷間伝えられるエド・ストラングラー・ルイスの生まれが1890年ですから、彼らはルイスよりも4歳ほど年下になります。

そしてこれも偶然ながら、本項の主人公であるジャック・シェリーも、ペセック、モントと全く同じ年の生まれです。


続いて、ペセック、モントは、それぞれネブラスカ州ラヴェンナ、アイオワ州ウェイン郡と場所こそ違え、農家の息子として生まれ、幼い頃から一家の重要な働き手として農作業に従事しています。

この生活が、彼らレスラーにとって最も重要な、強靭な足腰を自然に育んだものと思われます。


そしてこれが一番大切なことですが、このふたりもシェリー同様、“アメリカン・プロレスの父”マーチン・ファーマー・バーンズにレスリングの指導を受けていた時期があった、ということです。

ネブラスカ州オマハのバーンズの元を訪れたのは、ペセックが最も早く1916年頃、モントが1919年頃、そしてシェリーが1921年頃と言われておりますから、滞在時期こそ重複しておりませんが、のちに時代を代表するポリスマン、トラストバスターに成長し、壮絶な闘いを行ったこの3名は、日本流に言えばバーンズ一門の「兄弟弟子」と言うことになります。


我々日本人の感覚で言えば、これぞ「奇しき因縁」ということになるのでしょうが、欧米人にはそういう意識というのが、恐らく非常に希薄なのでしょう。

それと同時に当時の一流レスラーの「師弟の系譜」を辿っていけば、恐らくその8割はバーンズに行き当たるでしょうから、別段特筆すべきことでもないのかも知れません。

昭和の日本人プロレスラーのルーツを辿っていけば、ほぼ100%力道山に行き着くのと同じことです。


ペセック、モントは、今後も本項の重要人物のひとりとして登場致しますが、その詳細なプロフィールについては、別の機会にじっくり書いてみたいと思います。

まぼろしのシューター 前編総集編3

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トラスト・バスターVSポリスマン

初代トラストバスターであったセルビア系レスラー、マリン・プレスチナに話を戻します。
 

プレスチナがファーマー・バーンズの教え子だったということは前にお話ししましたが、彼は同時にバーンズ・キャンプにおける、フランク・ゴッチのスパーリング・パートナーでもありました。

それはプレスチナの実力が、ゴッチの世界王者時代から折り紙つきだったことを示します。

彼が頭角を現わし始めたのは、19119月にゴッチがジョージ・ハッケンシュミットを再び破り、世界プロレス界における地位を完全に確立した翌1912年のことです。

この年の2月から3月にかけて、プレスチナは3度に渡ってゴッチの対戦相手を務めています。

そして彼の出世試合と言えるのが
1914
2月、ケンタッキー州レキシントンにおけるエド・“ストラングラー”・ルイスとの「ザ・ストラングル・ホールド・チャンピオンシップ・オブ・ザ・ワールド」(“世界絞め殺し王”決定戦とでも訳しましょうか)です。

彼は、この2度の試合で“絞め殺し屋”の異名を持つルイスに勝ち越し、一躍トップ・レスラーの仲間入りを果たします。

「ターザン・オブ・ザ・マット」のニックネームを与えられ、フランク・ゴッチの後年のマネージャーであったエミール・クランクが彼についたのも、この頃のようです。
ジョー・ステッカー、スタニスラウスとワルディックのズビスコ兄弟、アール・キャドック、フレッド・ビール、チャーリー・カトラーといった、当時のアメリカのトップ中のトップたちとの対戦記録も、この時期から散見しています。

プレスチナが当時指折りのシューターであったのは間違いないですが、スロー・ペースで試合を行うことでも知られ、腰が重く、持って生れたパワーで相手を圧倒するタイプのレスラーだったようです。
後年のレスラーで言えばジョージ・ゴーディエンコが、タイプとしてプレスチナに最も近い存在かも知れません。

彼がもし、そのまま順調にレスラー生活を続けていれば、近い将来世界王座争いの一角をなしていたことは間違いありません。

そのトップ・レスラーの地位を捨て、師であるバーンズとジョー・キャロル・マーシュの要請に応じて『トラスト・バスター』として生きる道を選択したのですから、プレスチナというレスラーは相当に「男気」がある人物だったのでしょう。

ちなみにプレスチナとマーシュはコンビを組む際、「絶対に不正な試合を行わない」と誓いを立てたと伝えられております。

トラスト・バスター、プレスチナと『トラスト』傘下のレスラーたちとの対戦記録は数多く残されておりますが、その中で最も有名かつ壮絶な試合と言われているのが、19211014日、ニューヨークで行われた『ポリスマン』“タイガーマン”・ジョン・ペセックとの一戦です。

2時間3本勝負・テイク・アット・オール(勝者が賞金を総取り)」で行われたこの試合のリングサイドには、アーネスト・ローバー、トム・ジェンキンスなど、大勢のオールド・タイマーたちの顔がありました。

プレスチナのストラングル・ホールドと、ペセックのサブミッションが真っ向激突した壮絶なシュート・マッチは、20のストレートでプレスチナの勝ちとなりましたが、いずれもペセックのパンチ攻撃による反則負けであり、片目を潰されたプレスチナは、試合直後に病院に担ぎ込まれました。

ペセックにとっては勝利は二の次、肝心なのはプレスチナに如何に決定的なダメージを与えるか、にありました。

かくも壮絶なトラスト・バスターとしての生活を続けていたプレスチナですが、1926年頃に突然マーシュとのパートナー・シップを解消し、トラスト傘下へと移っていきました。


シュートとコンテスト

マリン・プレスチナが、突然ジョー・キャロル・マーシュとのコンビを一方的に解消し、『トラストバスター』の異名を捨て『トラスト』の傘下へと走り去った原因について、一説にはエド・“ストラングラー”・ルイスの別荘で行われたルイスとの『プライベート・マッチ』で、ルイスがプレスチナをグラウンドで圧倒し、意気消沈した彼のトラスト入りの密約はその時に交わされた、と伝えられております。


ちなみにトラスト傘下に入ったプレスチナは、破格の扱いを受けたようです。

そのトラスト内でのデビューを飾ったエキビジション・マッチでは、当時の金額で7,500ドルという大金が支払われたと言われています。
但し、ずっと後年になってマーシュと和解したプレスチナは、彼に「トラストへ移ってから公正な試合など一度も行ったことはなかった」と告白しています。

さて、プレスチナに去られたマーシュは、その後どうなったのでしょう。

彼はプレスチナに変わるパートナーとして、同じくバーンズ門下の屈強なシューターを選びました。

そのマーシュの新しいパートナーこそ、本項の主人公であるジャック・シェリーだったのです。


バーンズのキャンプを訪れレスリングの指導を受ける以前から、シェリーのシューターとしての実力は知れ渡っておりました。

1920年当時、シェリーはワイオミング州ロック・スプリングスを主戦場にしておりましたが、下の写真はこの当時のシェリーの活躍を地元新聞が特集した記事です(同年115日付)。

記事にはシェリーが同年723日に、『タイガー・ジョー・クラマ―』 (Tiger Joe Kramer)と名乗っていた当時のトーツ・モントと対戦し破ったことや、1028日にのちに世界王者となる“黄金のギリシャ人”ジム・ロンドスと対戦し、ヘッド・シザースとアーム・ロックの複合技で1本目を先取するものの、2本目、3本目を続けてロンドスの“フライング・ヘッド・ロック”で投げられ、21で破れたことなどが書かれております(このロンドス戦はある種の『ハンディ・キャップ・マッチ』で、「2時間の内にロンドスが2回シェリーを投げられたらロンドスの勝ち」というルールの元で行われたようです)。

『ポリスマン』として名高いモントとの対戦ですが、彼がエド・ルイスやビリー・サンドウとトリオを組むのは
1922年のことですから、この一戦はバーンズ・キャンプを“卒業”したばかりのモントと、シェリーによる「シューター同士」の『コンテスト・マッチ』であったと言えるでしょう。

ちなみに両者は、シェリーがバーンズ・キャンプを出たのち(あるいは彼がバーンズの『ATショー』に出ていた当時)である1922116日に、バーンズをレフェリーとして再戦しており、シェリーが再びモントを下しております。


上記の試合もそうですが、バーンズは自分の門下生であるシューター同士のコンテスト・マッチをマッチメイクする「趣味」があったようで、この試合以外にもやはりバーンズ門下同士である、マリン・プレスチナとチャーリー・ハンセンの試合をマッチメイクしております。

これは余談ですが、「シュート・マッチとコンテスト・マッチの違い」について少し私見を述べさせて頂きます。

日本ではどちらも「ガチンコ」あるいは「セメント」と表現されており、いずれもレスラーの意思、またはそういう試合が好みのプロモーターのリクエストで行われますが、意味するところは全く異なります。


コンテスト・マッチは、あくまで両者合意の上で行われるサブミッションも含めたレスリング内の試合、純粋にレスラー同士が互いの優劣を決めるためのものです。
「プロレスにおける競技試合」と言い換えることができ、観客の前で行うことも可能ですが、一般人の目には「恐ろしく退屈な試合」に映ることでしょう。


対してシュート・マッチは、「仕掛ける」という言葉が物語るように、相手を負傷させ壊すことを目的で行われる試合、プロモーターがいずれか一方のレスラーに要請、あるいは一方のレスラーの意思により行われます。

当然ルールなど度外視され、観客の前で見せられる類のものではなく、基本的にプロレスの試合としては成立しません。


ですから後者の試合を仕掛けられるレスラー、または仕掛けられたときに即応可能な技術を持つ、あるいはそういう覚悟を持った喧嘩度胸のあるレスラーを欧米では区別なく「シューター」と言います。
つまり、それがサブミッションに卓越したレスラーのみを表す言葉ではない、ということがお分かり頂けるでしょうか。

ここで上記3戦以外の、この当時のシェリーの主な試合を少しだけ列記してみます。

19201028日・ロック・スプリングス、ロンドスと再戦するも、試合途中の負傷で棄権敗退

1921105日・ロック・スプリングス、タロー・ミヤケ(三宅多留次)に勝利

1921122日・ロック・スプリングス、ジャック・テイラーに勝利

1921126日・ユタ州オグデン、アド・サンテルに破れる

対戦相手とその戦績を見れば、バーンズの薫陶を受けたシェリーがいかに凄まじいシューターへと変貌を遂げているか、容易に想像することができます。

彼は上記のようなシューターたちを含む、全米のトップ・レスラーたちとの死闘を、マーシュと出会う1926年前後までの期間も続けていたのです。


さて、1926年頃にマーシュと組んでトラスト・バスターとなり、トラスト・サイドを震撼させたシェリーの前に、とんでもない難敵が立ちはだかります。

全米最強のポリスマン、“タイガーマン”・ジョン・ペセックです。

まぼろしのシューター 前編総集編4

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ペセックとの死闘

トラスト・バスターの雄、ジャック・シェリーと、全米最強のポリスマン、ジョン・ペセックの最初の激突は、1927316日、オハイオ州コロンバスのメモリアル・ホールで実現しました。

この試合については、1週間後に内容を詳しく報道したネブラスカの新聞記事があるので、そちらを要訳してみます。 

当時のプロレス界における時代背景を、うっすらと感じ取ることが出来ると思います。

私の拙い訳文は、何卒ご容赦下さい。

なお文中のカッコ書きは、私の手によるものです。

リンカーンNEスター紙 1927323日(水)シカゴ(特派員)の記事より

マーシュは子飼いのインディアン(原文ママ) のヘビー級(レスラー)、シェリーを“ポリスマン”ジョン・ペセックと対戦させた。
後者は1本目を失い、その後反則行為により試合を没収された。

シカゴ・ミステリーのひとつが解明された。北ミシガン通りの一角に建てられたオフィスより発せられた騒音の正体が明らかになったのだ。レスリング・トラストの天敵、ジョー・マーシュは周辺一帯の治安と静寂を乱し、大きな笑い声をあげ続けた。
その理由とは――。

ジョーの新たなる子飼い、ヘビー級レスリングの天才、アラスカ出身のインディアン(原文ママ)、ジャック・シェリーが“ネブラスカの虎”ジョン・ペセックを先週オハイオ・コロンバスにおいて破った。ジョーは、この大勝利を喜ばずにはおれなかったのだ。

シェリーの「ペセック戦勝利」のニュース報道は、何故かすぐには伝わらなかった。この原因は、新聞協会がコロンバスのこの番狂わせを取材することに失敗したことにあった。それでもなお、ジョー子飼いのインディアン選手(シェリー)が実際にタイガーマン(ペセック)の肩をマットに押さえ込んだ(ピンフォール)という事実は明らかであり、それ故にマーシュ当人が自分の被後見人(シェリー)に代わって、(彼の)世界王座を主張するために突然姿を現し、子飼いのシェリーとステッカー、ルイス、あるいはトラスト側が指名するであろうその他のレスラーとの対戦を要求する声明を行った。

「私は10年近くもトラストと戦ってきた」
マーシュは笑みを浮かべながら言った。
「奴らはマリン・プレスチナが私に(トラストとの闘争を)やめて、トラストと手を組むよう説得に来た時、私がもうこれで落ち目になって消えていくのだと考えた。だが奴らは、もうひとつの心配をしなけりゃならなかったんだ」
「トラストはシェリーの対戦相手に“ポリスマン”ジョン・ペセックを使い、シェリーを使いものにならなくするという古臭い手口を使った。だが、その計画は台無しになった」
「シェリーはペセックには荷が重すぎた。トラストがリスク覚悟で(ジョー)ステッカー、ルイス、あるいは他の奴を差し向けてきても結果は同じだろう」
「私はシェリーが世界王者であると主張し、(シェリーは)世界のいかなるヘビー級(レスラー)とでも対戦する用意がある」

コロンバスの新聞に掲載されたシェリー・ペセック戦の記事がシカゴに届いた。その報道により、シェリーがペセックを果敢に攻撃し、タイガーマンにわずかの見せ場を与えた後、「フライングメイヤー」の連発で呼吸困難にした上てペセックを842秒、クラッチホールドとハーフネルソンの複合技によるピンフォールで、1本目の勝利を得たことが明らかになった。その後アラスカのレスラー(シェリー)は、故意に彼をロープ越しにリング外へ放り投げたペセックの反則行為により、2本目の勝利を告げられた。シェリーは頭から落下し、気絶させられた。レフェリーのシッソンは即座にペセックを失格とし、シェリーに(2本目の)勝利を与えた。よって彼がこの試合の勝利者になった――。

シェリーはこの死闘の勝者となりましたが、ペセックからリング下に投げ落とされた際に背骨を強打し、病院送りとなりました。

ペセックは、きっちりと自分の「仕事」を完遂したわけです。

つまり、シェリーは「名」をとり、ペセックが「実」をとった、と言い換えることも出来るでしょう。

さて、ペセック戦に勝利したシェリーでしたが、この後に彼とマーシュが望んだルイスやステッカーとの対戦は行われておりません。

他ならぬシェリーが、突然プロボクサーに転向してしまったのです。


プロボクサー・シェリー

ジャック・シェリーがプロボクサーに転向したのは、1927年後半か、1928年前半のあたりだと思われます。

彼が何故ボクサーに転向したのか、詳しい理由はわかりません。

マネージャーであるジョー・キャロル・マーシュとの仲違いか、トラスト・バスターとしてのレスラー生活に限界を感じたのか、恐らくはそんなことだろうと推測が可能です。

恐らく生来の腕っ節の強さを過信してのボクサー転向だったと思いますが、プロボクシングの世界はそんなに甘くありません。
1923
年の同じ週末に行われたレスリング、ボクシング両競技の全米大会に参加し、いずれもAAU王者になったポール・バーレンバッハや、レスリングのオリンピック銀メダリストからボクシングに転向し、わずかの期間でこちらでも全米王者となったダニー・ホッジの存在が、極めて特別な例なのです。

彼のプロボクサーとしての試合記録が、ひとつだけ残っております。
1928
815日のカリフォルニア州ウィルミントンで行われた、レス・ケネディ(Les Kennedy)との一戦です。

ケネディは世界王者になる前のマックス・ベアと1勝1敗の五分の戦績を残し、後年プロレスラーとなるプリモ・カルネラともグローブを交えたことのある、当時のトップ・ボクサーのひとりでした。
この試合、シェリーはわずか1ラウンドでマットに沈みました。
ケネディは後年のインタビューで、シェリーとはもう一戦行っており、再びKOで破ったと語っております。

ケネディとの2戦が、ボクサー、シェリーの全戦績であるとは言い切れませんが、いずれにせよそんなに多くの試合数はこなしておりません。
シェリーのボクシング生活は、わずかな期間で終わりました。

ボクサー生活を断念したシェリーに残された道は、プロレスへの復帰しかありませんが、マーシュと別れた時点で、トラスト・バスターへ戻る道は断たれています。

彼が選択すべき進路は、ひとつしか残されておりませんでした。


トラストへの従属

シェリーのレスラーとしての記録は、1928年の125日のカリフォルニア州ロサンゼルスにおける試合、そして同年918日のテキサス州ビューモントにおける試合が判明しておりますので、彼のボクシング転向の期間がかなり短いものであったことがわかります。

先に述べたレス・ケネディ戦が同年815日ですので、この試合がボクサー・シェリーのラストマッチだったのでしょう。

そして年明けの192919日、シェリーは因縁の宿敵、“タイガーマン”・ジョン・ペセックと約2年ぶりに相見えます。

場所は前回と同じオハイオ州コロンバス、今回の会場はクォリティ・クラブが選ばれました。

プロモーターは、この当時ペセックのマネージメントを取り仕切っており、後年はヨーロッパからアメリカ入りしたばかりのカール・ゴッチを重用したことでも有名なアル・ハフトです。

この試合でシェリーは前回と打って変わり、ペセックに2-0のストレート負けを喫しております。

1本目は45分にハンマー・ロックで、2本目も全く同じ技で、何と2分弱であっさりとギブアップさせられるという惨敗です。

この試合に、私は不可解なものを感じております。

もちろん単なる勝敗や、レスラー同士の強弱の問題ではありません。

全米指折りのシューターであったシェリーが、果たして2本立て続けに同じ技で、しかもかように短いタイムでライバルとの一戦を棄てるだろうか、という不可解さです。

ここからは、私の推論です。

ボクサーを断念し、プロレス界に戻ったシェリーを快く迎える者は誰もおりません。

それまでのジョー・キャロル・マーシュとのコンビは、シェリーがボクサーに転向した時点で解消しており、彼自身にトラスト・バスターとして、自らを売り込み試合に出場するプロモーション能力があったとは思えません。

残された選択肢はひとつです。

私はこのペセック戦こそ、彼が今後トラスト傘下のいちレスラーとして、決して体制に逆らわず従順に試合を「ともに作っていく」ことを宣誓する「忠誠の証」だったのではないかと想像しています。

かくしてトラストとトラスト・バスターの闘いの歴史は、トラスト側が彼らを飲み込む形で、1920年代と共に終焉を迎えました。

さて1930年代前半のシェリーの試合は、ニューヨークやボストン周辺で数多く散見されます。

エド・ダン・ジョージやガス・ゾネンバーグ、ヘンリー・デグレーン、そしてジム・ブロウニンなど当時のトップ・レスラーたちと数多くの対戦がありますが、試合結果は敗戦もしくはドロー・マッチのみで、勝利するのはあまり名の知れていない中級クラスのレスラーに限られております。

それが、トラストが彼に与えたポジションである、と言ってよいでしょう。

そのままこのポジションに甘んじていれば、ジャック・シェリーというレスラーの名前は、歴史の中に埋もれてしまったことでしょう。

ですが、そんな彼に大きなチャンスが巡ってきました。

まぼろしのシューター 前編総集編5

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檜舞台MSG

1932年の夏、ニューヨーク・アスレチック・コミッションは、それまで世界王者(NYC)として認定していた“黄金のギリシャ人”ジム・ロンドスの王座剥奪を発表しました。

その理由は、同年6月に「世界王座挑戦者決定戦」として行われたエド・ストラングラー・ルイスとディック・シカットの一戦における勝者であるルイスの挑戦をロンドスが拒否した、というものでした。

これは一説に、ニューヨークの大プロモーターであるジャック・カーリーと、彼と確執のあったルイスとの間で和解が成立し、絶大な人気を誇ったロンドスの傍若無人な態度に業を煮やしていたカーリーが、ルイスを使ってロンドスの世界王座の追い落としを謀っていたのを察知して、ロンドスが王座を放棄してニューヨークを離れたものだと言われております。

ルイスの「ロンドス嫌い」は関係者の間ではつとに有名であり、また当時のルイスには実力でロンドスを王座から陥落させることが、まだ年齢的にも可能だったのでしょう。

さて、空位になった世界王座の行方についても、この時に併せて発表になりました。

それはまず同年1010日にレイ・スチールとジャック・シェリーが対戦し、その勝者とルイスが1031日に「世界王座決定戦」を行う、というものでした。

このスケジュールは、スチールが直前に試合をキャンセルしたことで変更となり、最終的には1010日のマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)において、ルイスとシェリーの間で王座決定戦が行われることに決まりました。

ここに、私はひとつの疑問を感じます。

それは、ルイスとの王座決定戦に何故シェリーが抜擢されたか、ということです。

私の調査が正しければ、1920年代をトラスト・バスターとして過ごしてきたシェリーに、これまで世界王座に挑戦するチャンスは皆無でした。

そして、1930年代の約2年間はニューヨーク周辺エリアの会場で試合をしていたシェリーでしたが、この地区の総本山とも言えるMSGでの試合に出場することは、それまで一度としてありませんでした。

当時から変わらないプロレス界の通例として、こういった大舞台でのメイン・カードに出場する新顔のレスラーは、他のエリアでのトップであれ、ある程度の段階を踏むものです。

まずはセミ・ファイナルあたりで中堅クラスのレスラーを破って実績を作り、プロモーターはそのレスラーの宣伝に努めます。

それがMSG初登場で、いきなりルイスとの世界戦とは、まず考えられないことです。

例えその試合の勝者がルイスだと、事前に決まっていたとしても、です。

私は次のように考えます。

トラスト・バスターとしてのシェリーの認知度は、1920年代を知るファンの間ではかなり高いものだった。

1930年代に入ってシェリーがニューヨーク周辺の会場に出場していることも、当然地元のファンは周知だった。

そして関係者の間で“無冠の帝王”の異名を持っているシェリーを破ることは、ロンドスを追い落とし世界王座に返り咲くルイスにとって、まだロンドスに取って代わるだけの実力者であることを証明するため、またトラスト・バスターとかつて呼ばれたレスラーの実力が、実は大したものではないことを知らしめるためにも必要なことだった――。

いかがでしょうか。

私にはこの「シェリー大抜擢」の理由が、他に探し出せないのです。

シェリーとルイスは、この時よりちょうど2年半前の193043日に、ボストンで一度だけ対戦した記録が残っております。

このときはシェリーが1本目を先取したものの、2本目、3本目を連取され、ルイスに破れています。

シェリーのアメリカ時代で唯一とも言える“檜舞台”での闘いが、いよいよ始まりました。


ルイスの告白

ジャック・シェリーとエド・ストラングラー・ルイスによる「世界王座決定戦」は、19321010日にマジソン・スクェア・ガーデン(MSG)において行われました。

この日の会場に集まった観衆の数は、およそ5,000人でした。
同年初頭までのジム・ロンドスの王者時代には、多い時で2万人、少ない時でも1万人以上の観客を収容していたわけですから、わずか半年あまりで隔世の感があります。
もはやルイスが持っていたカリスマ性は、なきに等しいものとなっていたのです。

両者の一戦は、俗に「オールド・スタイル」と呼ばれる、当時すでに主流であったフライング・メイヤーやフライング・タックルなどの派手なパフォーマンスが一切ないクラシカルで地味な試合展開となり、それまでロンドスのダイナミックな試合を見慣れた多くの観客からは、ヤジが飛び嘲笑が漏れていた、と翌日の新聞は伝えております。

“現代プロレス中興の祖”ともいうべきルイスのことですので、観客に阿った試合を見せることも可能だったはずです。

ところが彼はシェリーに合わせるかのように、オールド・スタイルのレスリングを行いました。

私はこの試合が、ある時点まで「コンテスト・マッチ」として行われていたような気が致します。

ずっと後年の1971年にイギリスで出版された『BLUE BLOOD ON THE MAT』というタイトルの書は、初代「大英帝国ヘビー級王者」であったアソール・オークリー(Atholl Oakeley)の自伝ですが、その記述の中には、渡英したルイスがオークリーにこの一戦の顛末を語る場面があります。

その部分を抜粋して訳してみます。

「俺は奴(シェリー)に何もできなかった。1時間経っても決着がつかねえ。奴は強すぎたんだ。客はずっと俺たちに注目してやがる。俺は、奴にこうささやいた。“おいジャック、どっちかが降りねえとレスリングじゃなくなるぞ”ってな。“あんたがリマッチのトレーニングに半年くれるんなら、俺は降りてもいいぜ”って奴は言ったよ。 俺がOKすると、奴は(この一戦の勝ちを譲り)リングを下りていったんだ」

試合は1時間13分にも及ぶ激闘の末、ルイスがこの試合4度目のヘッド・ロックを敢行しシェリーに辛勝、ニューヨーク版世界王座に就きました。

上記したルイス述懐の真偽の程は量りかねますが、試合中にルイスがシェリーと約したという両者の「リターン・マッチ」は後日、実際に行われようとしておりました。
ルイスが世界王座をジム・ブロウニンに明け渡すこととなるMSGでの一戦(1933220日)の直前である215日、場所はフィラデルフィアのコンベンション・ホールと決定し、チケットも売られておりました。

ところが試合の直前になり、このリターン・マッチは突然キャンセルとなりました。

この興行を取り仕切るプロモーターのフィル・グラスマンは、

「ニューヨークのシェリーから電話があり、トレーニング中の負傷により試合をキャンセルしたい旨の申し出があった」

と、その理由を説明しました。

果たして本当にそうでしょうか。


幻のフィラデルフィア決戦

ジャック・シェリーの「ルイス戦欠場の謎」については、当時の雑誌『Boxing & Wrestiing News』誌が2回に渡って特集記事を掲載しております。

そこからこの「事件」の顛末を、以下に要約してみます。

フィラデルフィアのプロモーターであるフィル・グラスマンは、「トレーニング中に負傷した」シェリーに代わって、来たる215日のエド・ストラングラー・ルイスの世界王座への挑戦者は、自分の子飼いであるスタンレー・ピントが務める、と報道陣に発表しました。

この新聞記事を、シェリーはニューヨークで目にしました。

彼はすぐにグラスマンに電話を入れ、自分が負傷も、ましてや欠場の連絡などしておらず、それがルイス・サイドのくわだてた陰謀である、と訴えました。

そしてグラスマン相手ではラチがあかないと知るや、シェリーはフィラデルフィアのアスレチック・コミッショナー宛に、同様の趣旨をしたためた速達を出しました。

シェリーの訴えを重く受け止めたコミッショナーのロバート・ネルソンは、試合当日である15日の午前中に、フィラデルフィアで関係者を集めて公聴会を開きました。

シェリーがその席で意見を述べたあと、グラスマンの側近であるナット・フランクなる人物が、自分が受けた電話の声は確かにシェリーのものであった、と証言し、グラスマンは、その報告を聞いてシェリーの代わりにはピントが適任者だと考えた、と述べました。

その日の公聴会は、それぞれが自分の主張を述べるだけで結論は出ませんでしたが、ネルソンは、ひとまずその日の夜に予定されている興行の中止を、グラスマンに命じました。

次の公聴会は、ルイスがMSGでジム・ブロウニンに破れ、世界タイトルを失った翌日の221日に、再びフィラデルフィアで開かれました。

その席上でシェリーは、この「事件」の顛末は、ブロウニンにタイトルを「明け渡す」前に、シェリーにベルトを奪われることを恐れたルイスの関係者が、プロモーターのグラスマンと諮って自分にタイトル奪取の機会を与えぬよう計画されたもので、この試合が実現していれば、自分は必ずルイスに勝つ自信があった、という趣旨の意見陳述を行いました。

シェリーの発言は、この会の議長であるネルソンを十分納得させるに足るもので、彼は、この件の真相が解明されるまでの間、一切のプロレス興行を行ってはならない、とグラスマンに改めて命じました。

後日、シェリーは新聞記者のインタビューに応じて、ブロンニンの世界王座は無効であり、自分こそが世界王者である、と主張しています。

ルイスは前回のMSGにおけるシェリーとの対戦を通じて、彼を「信用ならざる人物」と考え、今回の計画をくわだてたようですが、彼の懸念は実際に的中しておりました。

シェリーは「本気」で、ルイスの世界王座を奪うつもりだったのです。

そしてシェリーとの「シュート・マッチ」で彼に勝利する自信など、すでに43歳になろうとしていたルイスには持てなかったようです。

前回も紹介した『BLUE BLOOD ON THE MAT』には、この「幻のフィラデルフィア決戦」をルイスが述懐する場面もあります。

「半年前の奴(シェリー)は俺を嘗めていやがって、ろくすっぽトレーニングもしてなかった。そこら辺の奴らと俺を、おんなじように考えていたんだろうよ。だが今回は違った。この再戦に向けてトレーニングしてきた奴は、前とは全く別人だった。それに奴のそばにゃ、もうひとりの野郎がいた。2人がかりでやられちゃ、俺も勝てねえよ。誰かって?“時の流れ”だよ。誰も敵わねえ野郎さ」

さて、シェリーとルイスの因縁は、ずっと後に再燃することになりますが、それはまた後日記すことに致します。


ズビスコの手記

前回お話しした「事件」の後も、ジャック・シェリーはニューヨーク周辺での試合を続けておりました。

MSGには、その「事件」の直前である1933123日に再び出場しておりますが、シェリーの試合は前回と打って変わり、何と「前座第1試合」という扱いです。

そして、その後シェリーが“檜舞台”MSGのリングに再び上がる機会は、二度とありませんでした。

同年321日付の新聞は、エド・ストラングラー・ルイスのかつてのライバルであり、“大黒柱”と呼ばれたポーランドのスタニスラウス・ズビスコ(Stanislaus Zbyszko)が、シェリーのマネージャーに就任したことを、自分はシェリーが必ず世界王者になると信じている、という彼のコメントとともに伝えております。

しかし、シェリーとズビスコの蜜月の期間は、それほど長いものではなかったようです。

その理由をズビスコは、ずっと後年の1953年に『TRUE 』なるゴシップ誌に発表した手記で、次のように述べています。

(1930年代の)アメリカ・マット界は、金儲け主義のプロモーターたちに牛耳られており、人気ばかりで実力の伴わないレスラーたちが世界王者の座に居座っていた。私は連中にひと泡吹かせてやろうと、実力のあるジャック・シェリーのマネージャーに就任した。当時シェリーは、(プロモーターのポール)ボウザー子飼いのチーズ・チャンピオンであるダノ・オマホニーに勝ちを譲らねばならぬのを忘れ、うっかりと勝ってしまい、プロモーターたちのブラックリストに載り不遇な日々を送っていた。まずはシェリーをフィラデルフィアでルイスと対戦させようとしたが、直前になってルイスが試合を拒否してきた。それならばとニューヨークでドイツ人のタフガイ、ディック・シカットとの試合を組もうとしたが、何と今度はシェリー自身が試合をキャンセルして、シンジケートの元に走り去り、パフォーマーに成り下がってしまった」

幻と消えたルイスとの一戦は、ズビスコがマネージャーに就任する以前の出来事のようですので、上記文中のルイス云々の部分は、ズビスコの記憶違いか、いわゆる「手柄話」の一種と考えてよさそうです。 

マスコミを賑わせた「幻のルイス戦」を新聞で知ったズビスコが、自らシェリーのマネージャーを買って出た、というのが真相ではないでしょうか。

ですが、もしもズビスコのマネージャー就任が、新聞報道よりもかなり以前の出来事で、手記の内容が事実だとすれば、それこそルイスが態度を硬化させ、シェリーとの対戦を何としても避けようとした最大の理由であることは、間違いないでしょう。

ジム・ロンドス同様、ズビスコもルイスとは「犬猿の仲」でしたから、彼がマネージャーに就任した以上、シェリーとの対戦をルイスが承諾するはずがありません。

硬骨漢で知られるズビスコがシェリーの側に立った時点で、フィラデルフィアのリングで行われるのは、「シュート・マッチ」以外にないのです。

もうひとつ上記の文中で重要なのは、シェリーが再び「シンジケートの元に走り去」った、という部分です。

ルイスとのフィラデルフィア決戦前後のシェリーは、まるでかつてのトラストバスターとして過ごした時代を思い出したかのように、活き活きと彼の本領を遺憾なく発揮しているように見えます。

しかし夢破れ意気消沈したシェリーには、再びトラスト傘下の中堅レスラーとして従来のように試合をこなしていくより他に、アメリカのプロレス界で生きていく術はなかったのです。

さて、シェリーの試合記録は1934年初頭まで全米各地の新聞で散見されますが、彼は同年2月を最後に、忽然とアメリカ・マットから姿を消します。

果たして、彼はどこに消えてしまったのでしょうか。

まぼろしのシューター 前編総集編6

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一通の電報

1935年も終わろうとしていたある日のことでした。

大英帝国初代ヘビー級王者であり、当時はプロモーターも兼任していたイギリスのアソール・オークリーは、南アフリカから1通の電報を受け取りました。

差出人は、ヘンリー・アースリンガー(Henry Irslinger)という現地のプロモーターでした。

アースリンガーは、元々第一次大戦前のイギリスや、アメリカで活躍したミドル級のレスラーで、1908年にはロンドンのアルハンブラ劇場におけるキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのオープン・トーナメントで、のちに「グレイシー柔術の祖」として知られるコンデ・コマこと前田光世を破ったこともありました。

アースリンガーはその後、レスラーのかたわらでカナダを中心にプロモーターとして興行を続けておりましたが、1920年代後半には南アフリカにも進出してプロレス興行を行い、成功を収めておりました。

そしてアースリンガーは、1930年にレスラーであるベン・シャーマン(Ben Sherman)を伴い再渡英し、当時アメリカで人気を博していた、ダイナミックかつスピーディな最新スタイルのプロレス興行をイギリスで行いました。

ちなみにシャーマンは、“求道者”カール・ゴッチが「自分の人生で出会った最強レスラーのひとり」として尊敬していたレスラーで、後年プロ柔道からハワイでプロレスラーに転向した“柔道の鬼”木村政彦に、プロレス技術を指導したとも伝えられる「伝説のシューター」です。

『オールイン』(all-in)と名づけられたその興行の開催にあたり、アースリンガーはイギリスのアマチュアレスラーを何人かスカウトしましたが、そのうちのひとりがオークリーでした。

イギリス初の本格的なアメリカン・スタイルのプロレス興行は大成功のうちに終わり、その後もイギリス全土で大好評を博しました。

ースリンガーは、オークリーをアメリカに遠征させるなど「英才教育」を施したのち、彼にオールイン興行の一切を任せ、南アフリカへと戻っていきました。

オークリーは、1934年頃までレスラーを兼任しておりましたが、アースリンガーからの電報を受け取った時には、すでにプロモーター業に専念しておりました。

彼からの電報は、以下のような内容でした。

「これまで見たこともない凄いレスラーを発掘した・彼は私の興行を潰してしまう・彼の名はジャック・シェリー・世界王座を持っている・彼が私のビジネスを潰してしまう前に君の元へ送る・ヘンリー」

そう、アメリカを離れたジャック・シェリーは、南アフリカにいたのです。


シェリー離米の謎

1934年初頭にアメリカを離れたジャック・シェリーは、1935年時点で南アフリカのプロレスの興行に出場しておりました。

一説には、オーストラリア経由で現地に入ったとも言われております。

ェリーは何故アメリカを離れ、地の果てともいえる南アフリカにいたのでしょうか。

もちろん、その理由についてきちんと書かれたものは存在しません。

そこで、私の考えつくままにいくつか列記してみます。

もはやアメリカ国内にシェリーのポジションはなかった。

幻と消えたフィラデルフィアでのエド・ストラングラー・ルイス戦における一連のやり取りは、同地のコミッショナーまで巻き込んだ大事件へと発展し、その際のシェリーの言動は、全米中のプロモーターたちの知るところとなりました。

元々1920年代には、「トラストバスター」として知られていたシェリーです。

「やはりシェリーは信用のおけない、危険なレスラー」

と彼らが考えたことは、想像に難くありません。

自分の子飼いのトップ・レスラーを危険分子のシェリーと対戦させようとするアメリカ国内のプロモ-ターは、ごく僅かだったと思われます。

アメリカン・プロレスのグローバル化

1920年代から30年代にかけて、アメリカ・マットを離れ海外に進出するレスラーが多数存在しました。

具体的には、1920年代前半にオーストラリアに遠征した、ジョン・ペセック、クラレンス・イークランド(同地でアド・サンテルを破り世界ライトヘビー級王座獲得)やウォルター・ミラー、アル・カラシック(のちのハワイのプロモーター)、テッド・ザイ、シェリーより以前の1930年代初頭に南アフリカを訪れたベン・シャーマンやボブ・マイヤース(ウィガンのビリー・ライレーに勝利し世界ミドル級王座を獲得)などの名前が挙げられます。

また1921年の大正期に来日し、日本柔道界に挑戦状を叩きつけたアド・サンテルや、1928年にインドを訪れグレート・ガマと対戦したスタニスラウス・ズビスコも、これに該当するでしょう。

また多くの軽量級レスラーがメキシコを始めとする中南米を訪れ、始まったばかりのルチャ・リブレの発展に大きく貢献しています。
イギリスのプロレス史家であるチャールズ・マスカルは、後年彼らを「グローブ・トロッター」(globe-trotter、「世界を闊歩する人」の意)と呼んでおりますが、ある意味では欧米や中南米など文字通り世界を渡り歩いたコンデ・コマこと前田光世などは、グローブ・トロッターの典型と言えるかも知れません。

彼らは決して当時のアメリカ・マット界のトップという存在ではなく、その多くはレスリングの高度な技術を持ちながら、それに見合うポジションを与えられていなかったレスラーたちです。

彼らは、自分の実力に見合った活躍が出来る場を海外に見出しました。

そして彼らの意思に関わらず、彼らが訪れた多くの地では、アメリカン・スタイルのプロレスが根付いていきました。

アメリカ・マットで与えられたポジションに決して満足していなかったシェリーが、彼ら先達に倣い海外に飛び出したのは、むしろ必然と言えるかも知れません。

南アフリカという環境

1920年代の後半、ヘンリー・アースリンガーが現地でプロモートを開始した話は前回書きましたが、彼のプロレス興行はかなり活況だったようです。

その要因のひとつには、同地が金やダイヤモンドの世界有数の原産地であり、欧米からも多くの白人が「第二のアラスカ」を夢見て集まっていたことにあります。

“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン最後の伝承者”と言われるビル・ロビンソンに話を伺ったことがありますが、1930年代初頭に南アフリカに遠征した彼の師であるビリー・ライレーは、アメリカのベン・シャーマンやボブ・マイヤースと組んで金の採掘地を廻って小さな興行を行い、かなり大もうけをしたとロビンソンによく話して聞かせたようです。

シェリーが南アフリカより先にオーストラリアに渡っていれば、恐らく現地で知り合ったレスラーに南アフリカのマーケットについて話を聞いたのでしょうが、元々アラスカでプロレスラーとなったシェリーですから、「ゴールドラッシュ」による活況がどのようなものであるかは、身を持って知っていたのでしょう。

私の考えるシェリーの南アフリカ遠征の理由は以上のようなものですが、いかがなものでしょうか。

さて、アースリンガーの電報によれば、シェリーは現地で「世界王者」を名乗っていたようですが、それはいつ、どこで、誰から獲得したものなのでしょうか。


世界王者シェリー

ジャック・シェリーは、1935年に南アフリカからイギリスにやってきました。

かつては前田光世と2度に渡る死闘を展開し、ベン・シャーマンやボブ・マイヤースといった名だたるシューターたちと親交のあったヘンリー・アースリンガーでさえ、シェリーの妥協なきファイトぶりには手を焼いてしまい、イギリスの兄弟分であるアソール・オークリーに負い被せる形でイギリスに送り込んだのです。

そしてイギリスに到着したシェリーは、「世界王者」としてリングに上がることになりました。

当時のイギリスにおけるシェリーのプロフィールでは、この世界王座について次のように告知されたようです。

「この世界王座は、1934年にペンシルバニア州フィラデルフィアにおいてエド・ストラングラー・ルイスを破り獲得したものである」

年の違いこそあれ、これが先に述べたルイスとの「幻の一戦」を指すことは言を俟ちません。

シェリーにとってこの「戦いなき世界王座」は、ルイス・サイドの陰謀によってフィラデルフィアの一戦が中止にさえならなければ、必ずやルイスからタイトルを奪うことが出来た、という自信の表れとも言えるでしょう。

そして、もし仮にアメリカのルイスがこの世界王座にクレームをつけてくれば、イギリスのマットでルイスを返り討ちにし、今度こそ正々堂々と「アンディスピューテッド・ワールド・チャンピオン」(真の世界王者)を名乗ることが出来るのです。

一方、世界王者シェリーを迎え入れたオークリーには、一抹の不安がありました。

シェリーの何をアースリンガーが恐れたのか、ということです。

それを知るために、オークリーはある試みを思いつきました。


ジム・マッチ

ジャック・シェリーが渡英した当時、アソール・オークリーのオールイン・スタイルの団体は『トウェンティ・センチュリー・キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング・アソシエーション』という名称で、その興行は欧州中で活況を極めておりました。

ですから、オークリーにはイギリス国内はもとより、欧州各国からレスラーを結集させられる力がありました。

オークリーは、彼らの中から選りすぐりのレスラーをジムにおいてシェリーとスパーリングさせてみることで、彼の実力を確かめることにしたのです。

通常「ジム・マッチ」と呼ばれるこの観客不在の闘いは、「プライベート・マッチ」(例えば先に述べたルイスとプレスチナのスパーリング)とは若干意味合いが異なり、レスラー同士の強弱を測定するものではなく、プロモーターの意志で一方のレスラーの実力や特徴を確認し、どのようなポジションで、どのようなプロモーションを行うかを決定するような場合に用いられます。

これは後年のアメリカはもとより、日本のプロレス界においても実力未知数のレスラーが来日した場合などに、何度も行われたと聞き及びます。

オークリーはまず、フランスのアマレスの王者だったガストン・ゲバルトというレスラーをシェリーにあてました。

1ラウンド:シェリーはゲバルトに向かって歩を進め、まるで5歳児でも扱うようにゲバートを抱え上げ、その肩をマットに押し付けました。この間10秒。

2ラウンド:再び歩を進めたシェリーは、ゲバルトをダブルリストロックに極め、ゆっくりと23秒でフォールしました。

3ラウンド:ゲバルトの足を取りレッグロックで勝利しました。これもわずか10秒です。

オークリーは、王者とはいえ所詮アマチュアであるゲバルトに代わり、今度はカール・ポジェロ(Karl Pojello)をシェリーとスパーリングさせてみることにしました。

ご記憶のある方もいらっしゃるでしょうが、ポジェロはシェリーと同様に1920年代のアメリカで「トラスト・バスター」として名を馳せたレスラーで、彼もやはりアメリカを離れ、当時はオークリーの興行に出場しており、その実力は折り紙つきでした。

彼は同時に、オークリーの片腕とも言うべき、よき相談相手でもありました。

余談ですが、ベルギーのアントワープで少年時代を送ったカール・ゴッチの通うジムに、同地に遠征中のポジェロが仲間のレスラーと連れ立って練習に訪れたことがあり、彼らのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの練習を見たゴッチが「世の中にはこういうスタイルのレスリングもあるのか」と驚愕したというエピソードが残っております。

言わば、彼こそゴッチがその後のレスリング人生を送るきっかけを作ったレスラーなのです。

シェリーとポジェロは試合こそしていないようですが、アメリカでは同じ興行に出場していたこともあり、旧知の間柄でした。

ですからお互いの実力の程はある程度理解していたと思いますが、両者のスパーリングは一方的なものでした。

短時間でダブルリストロックを極め、ポジェロをあっさりと破ったのです。

それは、ポジェロの弟子であるビリー・バータスが行っても全く同じ結果でした。

オークリーはヘンリー・アースリンガーが何故シェリーを手放したか、その理由をはっきりと理解しました。


Gスピリッツ VOL.23は3月28日発売

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 私が寄稿している『
Gスピリッツ』の次号、VOL.23328日(水)に発売されます。
 主な内容は以下の通りです。

那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”


【創立40周年記念特集】

 金曜夜8時の新日本プロレス  

 
 前田日明

 藤波辰爾
 谷津嘉章
 藤原喜明
 ドン荒川
 新間寿
 櫻井康雄
 舟橋慶一
 永里高平
 初代タイガーマスク

 【特別企画】

  『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌

 -猪木のロマンとボックの野望-(後編)

 
【好評連載】

 実録・国際プロレス アニマル浜口(後編)


 ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
  NWAとAWAの全面戦争

 
呪われた白覆面の系譜(後編)

 アンヘル・ブランコ、ドクドル・ワグナー、グラン・マルクス

 
 今号での拙稿は、前号に引き続き『イノキ・ヨーロッパ・ツアーの全貌』の
後編です。

 ローラン・ボックを除くイノキ・ツアーに参加した欧州の選手たちの横顔、特に“伝説のアマチュアレスラー”ウィルフレッド・ディートリッヒについて出来る限り精細に綴りました。

 さらに番外編として、ローラン・ボックのプロレス生活において猪木戦と並び称される「伝説の試合」、ミル・マスカラス、そしてアンドレ・ザ・ジャイアントとの一戦についてボック、自身の新たな証言も交えて記してみました。

『イノキ・ヨーロッパ・ツアー』の全貌

 -猪木のロマンとボックの野望-
 
 第
1章 地獄への片道切符 -ツアーまでのエピローグ- 

 第2章 命を蝕む魔のロード -イノキ・ツアーの真実-
 以上前編(VOL.22・現在発売中)
 
 第
3章 ツアーを彩った男たち -欧州選手名鑑-

 第4章 2つのシュートマッチ -マスカラス戦とアンドレ戦-
 第5章 伝説のスープレックス -ウィルフレッド・ディートリッヒとは-
 以上後編(VOL.23328日発売)

 拙稿を抜きに考えても、今号の特集『金曜夜8時の新日本プロレス』は編集部独自の人選によるインタビューで、Gスピリッツならではの鋭い切り口が見られる仕上がりになっていると思います。

 一読者として、私も発売日を楽しみにしております。

Gスピリッツ Vol.22 (タツミムック)/著者不明
¥1,200
Amazon.co.jp
 
Gスピリッツ Vol.23 (タツミムック)/著者不明
¥1,200
Amazon.co.jp

カール・ゴッチに関する公開捜査

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久しぶりの更新で恐れ入ります。
また、その内容が公開質問の形となり、甚だ恐縮の至りです。

質問とは、例によってカール・ゴッチさんに関するものです。
私は次の5つの事項に関する記事を読んだ記憶があるのですが、どうしても出典が思い出せません。

・ゴッチさんが雑誌(だったと記憶しております)のインタビューで、
「自分はベルギー生まれたが、生後すぐにドイツへ移住した。だからベルギーはただ生まれたというだけに過ぎない」

という内容の発言をされているもの。

・同じく雑誌のインタビューで、
「自分はドイツで育ったが、ベルギー代表としてオリンピックに出場した。戦後すぐの大会だったから、選考がかなりいい加減だった」
という内容の発言をしているもの。

・これも雑誌のインタビューで、
「自分の母親はクリーニングの仕事をしていた」
という内容の発言をしているもの。

・アキレス腱固めのルーツを聞かれて、
「昔の○○というレスラーがアキレス腱固めを使っていた」
という内容の発言をしているもの。

・ジョー・マレンコが、
「フロリダのゴッチの元には大勢の日本人レスラーが来たが、きちんと学んだと言えるのはフジワラだけだ」
という内容の発言をしているもの。

このブログをお読み下さっておられる方で、上記の内のひとつでも出典がおわかりの方は、こちらのコメント欄か、私へのメール(ryosukenasa@jcom.home.ne.jp )宛に、どうかお知らせ下さい。
もちろん、上記発言の出典となる書籍、雑誌を譲ってもよいと仰る方は大歓迎です。
喜んで買わせて頂きます。

何卒、宜しくお願い致します。

Gスピリッツvol.28は6月26日(水)発売。

PR: 日本の資源 国産木材を使おう!-政府ネットTV

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今回は、日本の林業の現状や日本の資源である国産木材の効果的な利用について解説!

スネークピットの総帥、ロイ・ウッド氏来日。

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11月19日に後楽園ホールで行われるドラディション興行で、正式にプロレス・デビューを果たす藤波玲於南選手(リングネーム:LEONA)を応援するために、イギリス・ウィガンのスネークピット(旧アスプルジム)代表であるロイ・ウッド氏が来日を果たされます。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの世界では、“人間風車”ビル・ロビンソン氏と双璧をなすビッグネームです。

そこで緊急アンケートです。
ロイ・ウッド氏の来日を歓迎するための食事会を兼ねたトークショーを都内で行う場合、ご出席を希望される方はいらっしゃいますか?
ウッド氏は、11月末まで東京に滞在されるようですので、その間の土曜日か日曜日が条件になります。

ご出席をご希望される方が10名を超えましたら、正式にお願いしてみようと考えております。
貴重な機会ですので、是非実現致したく、つきましては、
こちらのコメント欄にでも、ご意見、ご希望を賜れましたら幸甚です。

ロイ・ウッド・ファミリーと

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ウィガン、スネーク・ピット代表のロイ・ウッド・ファミリーと通
訳の小池瑞香さん。
貴重なお話を伺うことが出来ました。
2013
年11月19日、後楽園ホールにて。



那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”


カナダの狂犬が逝く

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またひとり、20世紀を代表する偉大なるレスラーが逝きました。
モーリス・マッドドック・バション。
享年84歳でした。
ご冥福を心からお祈り致します。


那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”




櫻井康雄氏、舟橋慶一氏のトークショー&昼食会開催のお知らせ

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来る12月28日(土)に、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の往年の名実況コンビ、櫻井康雄氏(元東京スポーツ取締役編集局長)と舟橋慶一氏(元テレビ朝日アナウンサー)をゲストにお迎えしてのトークショー&昼食会「実況席から見た新日本プロレスの黎明期」を、東京駅八重洲口近くのレストラン、京橋ダイニングbubuで行います。

司会進行は、僭越ながら私が務めさせて頂きます。
どんな話が飛び出すか、乞うご期待です。

詳細とお申し込みはこちらまで(先着30名様まで)。
http://peatix.com/event/25042/view

また、お問い合わせは、こちらのコメント欄か、私の下記メールアドレスまで、お気軽にお寄せ下さい。
ryosukenasa@jcom.home.ne.jp





いよいよ今週末!

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櫻井康雄氏、舟橋慶一氏をゲストにお招きして開催するトークショー&昼食会「実況席から見た新日本プロレスの黎明期」が、いよいよ今週末に迫りました。
前売りチケットも、徐々にですが売れております。
確実にご参加をご希望される方は、お早めにお申し込み下さい。

【日時】平成25年12月28日(土)12時30分(12時 受付開始)
【場所】京橋ダイニングbubu(東京都中央区京橋1丁目4-11 竹本ビルディング B1F)
 ※当イベントへの同店へのお問い合わせはご遠慮ください
【定員】30名(先着順)
【会費】8,000円(Peatixよりお申込みください)
※飲食代は会費に含まれます。2時間飲み放題です。
※料理準備の関係で、12月24日以降のキャンセルは不可とさせていただきます。23日以前のキャンセルについては、キャンセル料(振り込み手数料込)500円がかかります。

なお、イベントの詳細やお申し込みはこちらから。
http://peatix.com/event/25042/view

当日は、誠に僭越ですが、私が司会進行を務めさせて頂きます。
炎のファイター ~INOKI BOM-BA-YE~さんが、ブログで私のご紹介記事を書いて下さいました。
大変に持ち上げて下さり、かなりこそばゆいのですが、この機会に私のプロフィール をお見知りおき下されば幸甚です。

満員御礼!!

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明日12月28日、櫻井康雄氏、舟橋慶一氏をゲストにお迎えして開催するトークショー&昼食会「実況席から見た新日本プロレスの黎明期」ですが、昨日の参加者募集締め切り時点で、定員の30名を超えました。
これもひとえに皆様のご協力の賜物です。
有難うございました。

明日のイベントに向けて、私も資料首っ引きで猛勉強中です。

有難うございました!

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昨日のトークショー&昼食会にご参加頂いた皆様、

長時間お付き合い頂き、有難うございました。
ゲストである櫻井康雄さん、舟橋慶一さんも、大いに楽しまれておられました。
拙い司会進行、何卒ご容赦下さい。
私はやはり、話すよりも書くほうが得意なようです。

皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。





人間風車よ、永遠なれ。

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訃報です。

“人間風車”ビル・ロビンソン氏がお亡くなりになりました。
享年75歳。
思い出が走馬灯のように浮かび、言葉もありません。
今はただ、故人のご冥福を心よりお祈りするのみです。





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